翻訳と辞書 |
バルバラ・ラジヴィロヴナ : ウィキペディア日本語版 | バルバラ・ラジヴィウヴナ
バルバラ・ラジヴィウヴナ(波:Barbara Radziwiłłówna;立Barbora Radvilaitė, 1520年12月6日 ヴィリニュス - 1551年5月8日 クラクフ)は、リトアニアの名門貴族ラジヴィウ家出身の貴族女性。ポーランド王ジグムント2世の2番目の妃となった。 == 生涯 == ヘトマンのイェジ・ラジヴィウとバルバラ・コランカの娘として生まれた。当時の記述によると、バルバラは当時のヨーロッパ世界でも有数の美人として知られていた。長身(約162cm)ですらりとしており、ブロンドの髪と白い歯の持ち主だったという。また服装や化粧にも気を遣い、常に白粉と香水を用いたという。両親より良い教育を施されたため、母語であるリトアニア語はもちろん、ベラルーシ語・ポーランド語・ラテン語を読み書きできた。1537年、ノヴォグルーデク県知事スタニスロヴァス・ゴシュタウタスと結婚したが、5年後の1542年に死別した。 ジグムントの後添えとなったのは1547年で、多くのポーランド貴族(シュラフタ)らの反対を押し切ったものだった。カトリック教徒が多数を占めるポーランド・リトアニアにおいて、バルバラは少数派のカルヴァン派信徒だったことと、政略的には何の見返りも望めない、ジグムントの恋愛結婚だったためであった。ジグムントの母ボナ・スフォルツァも反対し続け、2年もの間議論を続けた結果、物別れに終わった。1550年12月、バルバラはついにポーランド王妃として戴冠した。バルバラと国王との結婚はポーランド、リトアニア両国におけるラジヴィウ家の権勢を大いに高め、実兄のミコワイ・ラジヴィウ・ルディ、従兄のミコワイ・ラジヴィウ・チャルヌィらが国王の外戚として権力を掌握した。 ところが戴冠式からわずか5ヶ月後の1551年5月8日、、バルバラはクラクフで急死した。彼女の死に王は打ちのめされ、人々は何の証拠もないものの、バルバラは王母ボナに毒殺されたと噂した。彼女は故郷リトアニアに埋葬されたいと望んだため、遺体はヴィリニュスに運ばれ、ヴィリニュス大聖堂に納骨された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バルバラ・ラジヴィウヴナ」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|