|
バルバリア海賊(バルバリアかいぞく、、またはバルバリア・コルセア、、またはオスマン海賊、)は、北アフリカのおもにアルジェ、チュニス、トリポリを基地として活動した海賊と私掠船乗員である。 == 概要 == 北アフリカの地中海沿岸地域は、ベルベル人が住んでいるので、ヨーロッパではバーバリ(バルバリア)海岸と呼ばれていた。それを根拠地とした海賊が、バルバリア海賊である。 その略奪行為は地中海全体に及び、西アフリカの大西洋岸や南アメリカ、さらには北大西洋のアイスランドまで広がっていたが〔A 44-gun Algerian corsair appeared at Río de la Plata in 1720. Cesáreo Fernández Duro, ''Armada española desde la unión de los reinos de Castilla y de León'', Madrid, 1902, Vol. VI, p. 185〕、主な活動領域は西地中海だった。船舶を捕獲することに加え、主にイタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、さらにはブリテン諸島、オランダ、アイスランドまでの海岸にある町や村を襲うラジアと呼ばれた略奪を行った。その攻撃の主目的は北アフリカや中東でのイスラム市場に送るキリスト教徒奴隷を捕まえることだった。 このような襲撃は、イスラム教徒がこの地域を征服してから間もなく始まったが、バルバリア海賊という言葉は通常16世紀以降の襲撃者について使われるようになった。この時期から襲撃の頻度が上がり、範囲が広がったものであり、アルジェ、チュニス、トリポリはオスマン帝国の支配下に入り、バーバリ諸国と呼ばれる直接管理地域あるいは自律的独立地域になっていた。類似した襲撃はサレなどモロッコの港からも出て行われていたが、厳密にはモロッコはオスマン帝国の支配下になっておらず、バーバリ諸国に数えられていない。 海賊は数多くの船舶を捕獲した。スペインやイタリアの海岸線はほとんど全て住民が放棄することになり、19世紀まで定住が進まなかった。16世紀から19世紀、バルバリア海賊は80万人ないし125万人の人々を捕まえて奴隷にしたと推計されている〔。海賊の中にはジョン・ウォード(イギリス人)やジーメン・ダンスカー(オランダ人)の様にヨーロッパのはぐれ者や改宗者がいた〔Review of ''Pirates of Barbary'' by Ian W. Toll, New York Times, Dec. 12, 2010〕。バルバロッサ兄弟のバルバロス・ハイレッディンとバルバロス・オルチは16世紀初期にオスマン帝国のためにアルジェを支配しており、海賊としても有名である。1600年頃、ヨーロッパの海賊がバーバリ海岸に最新式の航海術と造船術をもたらし、そのことで海賊行為は大西洋にまで広がり、17世紀初期から半ばが最盛期になった。 17世紀後半にはヨーロッパ諸国の強力な海軍がバーバリ諸国と競って、和平を結びその船舶に対する攻撃を止めさせるようなったので、海賊行為の範囲は小さくなり始めた。しかし、そのように有効な保護が無いキリスト教国の船舶や海岸は19世紀まで被害を受け続けた。ナポレオン戦争の後の1814年から1815年のウィーン会議で、ヨーロッパ列強がバルバリア海賊を完全に抑圧する必要性に合意し、その脅威はほとんど消えたものの、時として海賊行為は発生し続けており、完全に無くなったのはフランスが1830年にアルジェを征服した時だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バルバリア海賊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|