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この項目では、1180年から1377年までのバン(首長)によるボスニア統治時代について記述する。バンによって統治されていたボスニアはボスニア・ヘルツェゴビナの大部分とダルマチア、セルビア、モンテネグロの一部を支配していた。ボスニアのバンは名目上はハンガリー王国の家臣となされていたが、事実上独立した国家となっていた 。1377年にバンのスチェパン・トヴルトコ1世が戴冠式で王国の建国を宣言し、ボスニア王国が建国される。当時のボスニアの歴史の大部分はローマ・カトリック教会と東方正教会の両方から異端と非難された土着のボスニア教会に関する宗教的論争を中心に記録されており、特にカトリック教会はハンガリーを通してボスニア教会の信徒と敵対し、迫害した。 == 歴史 == 10世紀から12世紀にかけてボスニアは外国の支配下に置かれ、1180年にハンガリー王国はビザンツ帝国(東ローマ帝国)からボスニアに対する宗主権を獲得する〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、23-24頁〕。1180年にボスニアのバンとなったクリンはボスニア民族の偉人の一人に挙げられ、彼の治世はボスニアの黄金期として記憶される〔クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、69-73頁〕。クリンの統治時代にボスニアの人間はセルビア人、クロアチア人と異なるアイデンティティーと習俗を身につけ、「ボスニア民族」の自我が芽生え始める〔柴『図説 バルカンの歴史』新装版、30-31頁〕。ラグーザ(ドゥブロブニク)の商人によってボスニアの商業活動が振興され、イタリアの職人もボスニアで活躍していた〔。 11世紀のボスニアのカトリック教徒はドゥブロブニク大司教の管轄化に置かれていたが、信仰は篤実なものとは言えず、ラテン語などの言語の読み書きができる人間はごくわずかな範囲に限られていた〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、25頁〕。クリンの時代のボスニアには、ボスニア独自のボスニア教会が創設される。しかし、ボスニア教会は周辺諸国から追放されたボゴミル派の疑いをかけられ、1203年に教皇庁から派遣された使節によって調査が行われた〔富田、石井「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」『新カトリック大事典』第4巻、670-671頁〕。クリンは異端ではないことを主張し、教皇の権利への服従を認めるが、その後もボスニアはたびたび異端の疑いをかけられる〔。 クリンの死後、ハンガリー王国はボスニアの支配を試みて数度の介入を行った。ハンガリーはボスニアのキリスト教信仰が異端という名目を掲げて介入し、当初は聖職者を介した工作活動が行われたが失敗したため、ハンガリーは教皇庁に働きかけてボスニアへの十字軍の派兵の承認を受ける〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、27頁〕。1235年から1241年にかけてボスニアはハンガリー軍の攻撃に晒され、ハンガリー軍はヴルフ=ボスナ(現在のサラエヴォ)に達するが、モンゴル帝国がハンガリーに侵入したため、ハンガリー軍は退却する〔。軍事行動に失敗したハンガリーは教皇庁に働きかけて支配の強化を試み、ボスニア内のカトリック教会はドゥブロブニク大司教からハンガリーの大司教の管轄下に移される〔。だが、ハンガリーから派遣された聖職者はボスニアから追放されてスラヴォニアに移り、ボスニアは国外のカトリック世界との関係を遮断する〔。 1252年にボスニア北部(下ボスニア)はハンガリーの支配下に置かれ、バンの元にはボスニア南部の丘陵地(上ボスニア)だけが残される〔。ボスニアには「異端」と見なされた信者の正統な信仰への復帰のためにドミニコ会の修道士が派遣されていたが〔、ハンガリーが統治する下ボスニアにフランシスコ会の修道士が移住する〔。1299年にクロアチアのシュビッチ家が下ボスニアの支配権を掌握し、シュビッチ家はハンガリー王国の封臣として一時的に南北ボスニアの統合に成功するが、1322年に民衆反乱によってシュビッチ家の支配は終わりを迎える〔。 1318年にバンに選出されたスチェパン・コトロマニッチはハンガリーとの外交関係の回復に努め、コトロマニッチ統治下のボスニアは基本的にハンガリーの同盟国の立場を保っていた〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28頁〕。1321年にセルビア王ステファン・ウロシュ2世ミルティンが没した後のセルビアの混乱を利用し〔、1325年/26年〔にボスニアはハンガリーとセルビアの係争の地となっていた(ヘルツェゴヴィナ)の獲得に成功する〔。ボスニアはスプリトからネレトヴァ河口に至る海岸線を支配下に置き、歴史上初めて海への出口を確保することができた〔。コトロマニッチの治下では鉛、銀の鉱山の開発が実施され、産出された鉱物はアドリア海沿岸部に輸出された〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、29頁〕。 13世紀半ばからおよそ100年の間ボスニアはカトリックの聖職者、寺院、信徒が存在しない状況に置かれていたが、1340年代からコトロマニッチは「異端」の非難をかわすためにボスニアにフランシスコ会の宣教師を招聘する〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28-29頁〕。1342年にボスニアにフランシスコ会の司教代理区が設置され、1347年頃にはコトロマニッチ自身もカトリックに改宗する〔。ボスニア教会の信徒はコトロマニッチの改宗に反発し、ボスニアとセルビアのステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの間に戦争が勃発した際に彼らはセルビアを支持する〔。 コトロマニッチの時代のボスニアは国家組織が確立されておらず、土地の統治は各地の領主に委ねられていた〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、37頁〕。1353年にスチェパン・コトマニッチの甥スチェパン・トヴルトコが即位した後、ボスニアはおよそ17年の間内紛と外国の干渉に苦しむ。1360年代初頭までにトヴルトコはボスニア北部での支配権の回復に成功し、セルビア人諸侯のボスニア南西部への介入を阻止する〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、37-38頁〕。1370年にボスニアの内情は安定を取り戻し、トヴルトコは領土の拡張に取り掛かる〔。1374年に上ドリナ地方とリム川流域がボスニアの領土に編入され、フム地方全体とセルビアの領土に含まれていたサンジャク地方の大部分がボスニアの支配下に置かれる〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38頁〕。 1377年にトヴルトコは「セルビアとボスニアの王」として戴冠式を行い、、これ以降ボスニアの君主はバンの称号ではなく王を称するようになる〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38-39頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バンによるボスニア統治時代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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