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バンカーヒルの戦い(バンカーヒルのたたかい、)は、アメリカ独立戦争初期ボストン包囲戦中の1775年6月17日に起こった大陸軍とイギリス軍の戦闘である。大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギリス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮を執った。この戦いは両軍の当初の目標だった「バンカーヒル」という名で知られているが、実際の戦場は近くのブリーズヒルであった。独立戦争では2番目の戦闘だった。 6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍の指導者達は、イギリス軍の将軍たちがボストン市内から部隊を出して市を取り囲む丘を占領する作戦を立てていることを知った。この情報に反応してウィリアム・プレスコットの指揮する1,200名の部隊が密かにバンカーヒルとブリーズヒルを占領し、ブリーズヒルには土盛りの堡塁を造り、チャールズタウン半島の大半にわたる軽く防御を施した前線を築き上げた。 翌日、イギリス軍が新しい陣地の出現を知ると、そこへの攻撃を掛けた。大陸軍の前線に対する攻撃は2回までも大きな損失を出して撃退されたが、3回目にその陣地を占領した。堡塁の大陸軍は弾薬が尽きていた。大陸軍はバンカーヒルを越えてケンブリッジまで撤退した。 ハウの当初の目的は達せられたが、ボストン包囲戦の行方には何の効果も無かった。イギリス軍は800名以上が負傷し、226名が戦死した。この中にはかなりの数の士官が含まれていた。戦闘後、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍は、「このような勝利を繰り返していたら、イギリスのアメリカ支配は終わってしまう」と日記に記している。相対的に訓練ができていなかった大陸軍は正規軍との会戦でも進んで対応できることを示した。訓練されたイギリス正規兵に対し、寄せ集めに近い民兵で対抗できたことが自信につながったといえる。大陸軍のイズラエル・パットナム将軍か彼の副官のウィリアム・プレスコットか、あるいは他の誰かが「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」と命令したというが、この命令を誰が発したかについて歴史家の中では議論になっている。 == 地勢 == 半島にあるボストン市は〔18世紀のボストン市は半島だった。主に19世紀の間に半島を取り巻く土地が埋め立てられ、現在の地形になった。ボストンの歴史を参照。〕、そこを取り囲む海と海を支配するイギリス海軍艦船によって近付くこともできないように守られていた。4月19日のレキシントン・コンコードの戦いで始まった武力衝突後は、植民地の民兵が約15,000名にもなって〔Chidsey, p. 72 New Hampshire 1,200, Rhode Island 1,000, Connecticut 2,300, Massachusetts 11,500〕市を取り囲み、事実上包囲していた。アートマス・ウォードが指揮する大陸軍はボストンへの唯一の陸からの道であるロクスベリー・ネックを抑えていたが、海軍が無いためにボストン港内を支配するイギリス軍とは対抗できていなかった。イギリス軍はトマス・ゲイジ将軍の指揮下に約6,000名の勢力であり、市内を占領し、海から補給や援軍を得ることができた〔Alden, p. 178〕。サミュエル・グレイブス提督が港内の艦隊を指揮していた。 チャールズタウン半島は、西北に狭く首になり(「チャールズタウン・ネック」としても知られる)、南西に約1マイル(1.6km)ボストン港側に伸びている。ボストン半島とは、一番近いところで1,000フィート(300m)足らずだった。バンカーヒルは半島の北側にある高地で標高は110フィート (33 m) あり、標高62フィート (19 m) のブリーズヒルはボストンに近い方に位置した〔Chidsey p. 91 has an historic map showing elevations.〕。チャールズタウンは半島南端の平地にあった。ボストン半島側にはコップスヒルと呼ばれるブリーズヒルとほぼ同じ高さの丘があった。コンコードからイギリス軍が退却してきてチャールズタウンで停止したが、ゲイジ将軍はこの半島の丘を即座に防御線とする道を選ばず、戦闘の翌日にはボストンへ部隊を引き上げさせたので、チャールズタウン半島は無人の土地になっていた〔French, p. 220〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バンカーヒルの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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