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ステパーン・アンドリーイォヴィチュ・バンデーラ(ウクライナ語:''Степан Андрійович Бандера'';1909年12月1日‐1959年10月15日)は、ウクライナの政治家、ウクライナ民族解放運動の指導者である。 ==概要== アンドリーイ・バンデーラ神父の息子。オーストリア・ハンガリーのガリツィア地方スタルィーイ・ウフルィーニウ村(現ウクライナ、イヴァーノ=フランキーウシク州)で生まれた。 1928年に(UVO)の一員となり、1929年にウクライナ民族主義者組織(OUN)に入党した。1931年にOUNの西ウクライナ支部の幹部に入り、1932年に同部の副幹事長に選ばれ、1933年に幹事長となった。ポーランド政府が西ウクライナで行った同化政策とウクライナ人の弾圧に対抗してテロリズムを唱えた。 1935年にポーランドの警察により、前年6月15日のブロニスラフ・ピエラキ(Bronisław Pieracki)内務大臣暗殺事件に関与した容疑で逮捕され、1936年にワルシャワ裁判とリヴィウ裁判において極刑の判決を受けたが、終身刑に減刑された。1936年から1939年にかけてワルシャワの刑務所「聖十字架」に収容されていた。 第二次世界大戦がきっかけでポーランド第二共和国が滅亡すると、ドイツ軍によって開放され、OUNの幹部に戻ってOUNの中で過激派の野党のリーダーとなった。1941年4月に第2ウクライナ民族主義者組織大会においてOUNの総裁に選ばれ、独ソ戦争の直前にドイツ側の支持した。 しかし、1941年6月30日にドイツ軍に占領されたリヴィウでウクライナ国の独立の復帰を宣言すると、ドイツ占領当局に逮捕され、7月6日にザクセンハウゼン強制収容所に送られた。その出来事によってウクライナにおける対独・対ソの戦いの象徴となった。1944年9月に連合軍によって解放されたが、ソ連に占領されたウクライナへ戻れず南ドイツへ移住した。 1952年にOUNの幹部を離れたが、西ウクライナでソ連軍に抵抗を続けていたウクライナ蜂起軍の司令部と連携をとった。1956年から1959年にかけて海外のOUNの活動を管理した。1959年10月15日にミュンヘンでKGBのスパイ、ボグダン・スタシンスキー(:en:Bohdan Stashynsky)によって暗殺された。 ウクライナ人にとってバンデーラの名は20世紀半ばにおけるウクライナ民族解放運動の代名詞となっている。一方で、親ロシア派・親ポーランド派の政治勢力は、右派・左派を問わずバンデーラを「ファシスト」と敵視し、ウクライナ人を「バンデーラ主義者」(バデーロフツィ)と呼ぶことがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ステパーン・バンデーラ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Stepan Bandera 」があります。 スポンサード リンク
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