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パク・チュンフン : ウィキペディア日本語版
パク・チュンフン

パク・チュンフン(, 1964年3月22日〕 - )は、韓国の映画俳優パク・ジュンフンとも表記される。韓国語ではパク(朴)がパッチムkで終わるため、苗字と合わせても名前はジュンフンとは濁らず、チュンフンの方が近い。
ソウル出身。身長178cm、体重68kg。血液型はB型。
韓国中央大学校演劇映画学科卒業。ニューヨーク大学 大学院演技教育学 修士。
== 来歴 ==
1986年、映画『カンボ』でデビュー翌年の百想芸術大賞で新人賞を獲得した。1987年に公開された『ミミとチョルスの青春スケッチ』で一躍、青春スターへ伸し上がる。
1988年に公開された『チルスとマンス』では、当時の韓国社会の中で苦悩しながらも画家を目指すチルス役を見事に演じのけ、興行の成功と共に社会に大きな衝撃を与える。その後も『ウムクペミの愛(でこぼこ畑の愛)』『追われし者の挽歌』に主演し、ヒットを収めた。1991年に公開された『私の愛する、私の花嫁』はアジア太平洋映画祭で高く評価され、主演男優賞を受賞する。
当時、パク・チュンフンのもとには韓国で製作される映画全ての出演依頼が舞い込む程の人気だったが、彼は一切の出演を断り、単身渡米を決意する。アメリカではニューヨーク大学大学院で演技教育学の修士号を取得し帰国。後のインタビューでパク・チュンフンは「息の永い俳優になるため、渡米を決意した。」と述べた。帰国後の1993年末に公開された『ツー・コップス』は半年にわたり上映されるロングランで大ヒットを記録。1994年6月にニューヨーク大学で知り合った在日韓国人の女性と結婚する。その後も映画俳優として『ゲームの法則』『妻殺し』『金を持って高跳びしろ』などの大ヒット作を連発し、コメディ映画の全盛だった1990年代韓国映画をリードする。
米国からの帰国後、5年余りで10本以上に及ぶ劇場映画に主演したパク・チュンフンは1997年8月『ハレルヤ』を公開後に充電期間に入り、日本の東京で約1年を家族と共に過ごす。復帰作となった『NOWHERE-人情容赦し-』は1999年8月に韓国で公開され、執念で殺人犯を追い詰める熱血刑事役を演じ、数多くの映画祭で主演男優賞を受賞する。この映画をフランス・ドーヴィル国際映画祭で観たジョナサン・デミ監督はパク・チュンフンの演技に感銘を受け、出演を依頼する。これにより2002年に韓国人として初のメジャー級ハリウッド映画『シャレード(2002)』に出演することになる。
その後も、「黄山ヶ原」「あぶない奴ら〜TWO GUYS〜」「天軍」「強敵」に主演し、2006年にはアン・ソンギと共演した「ラジオスター」で自身2度目の青龍映画大賞主演男優賞を受賞。2007年にはジョナサン・デミ監督主催で、アジア人としては初となるニューヨークJacob Burns Film Centerにてパク・チュンフン回顧展を開いた。
2008年12月から韓国KBSテレビにて「パクチュンフンショー大韓民国日曜日の夜」を放送開始。芸能、政治、スポーツ界などの著名人を毎週ゲストに迎え、人生論を語り合うトークショーの司会を半年に渡り務める。
2009年7月に公開された映画『TSUNAMI -ツナミ-』では、釜山の海水浴場にメガ津波が押寄せる危険を予測するキム博士を演じ、韓国で観客動員数1153万人という文字通りメガヒットとなった。
 また俳優としてだけでなく映画監督としても長い間準備を重ね、2013年には映画「トップスター」で監督デビューを果たした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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