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パディ・グラッキン : ウィキペディア日本語版
パディ・グラッキン

パディ・グラッキン (Paddy Glackin、1954年8月5日生)はアイルランド人フィドル奏者。ボシー・バンドの創設メンバーの一人であり、アイルランド伝統音楽におけるフィドル奏者を代表する一人と考えられている〔〔。
==来歴==
パディ・グラッキンは、1954年8月5日、ダブリン郊外のクロンターフ(Clontarf)に生まれた〔。
ドニゴール出身の彼の父トム・グラッキン(Tom Glackin)はダブリンの警察官である一方で有名なフィドル奏者でもあった。トムはパディに自身の故郷ドニゴール州の音楽に対する深い関心と愛を植え付け、パディやその兄弟ケヴィン(Kevin)とシェイマス(Seamus)にこの楽器を教えた〔〔。
父からの影響の結果、パディは6歳の時にフィドルをドニゴールスタイルで始めた〔〔。
初等学校の時にパディは、ダブリンのチャタム・ロウ(Chatham Row)でクラシック音楽のヴァイオリンのレッスンを受け〔、これは重要な音楽技術の下地を形成し彼の驚異的な技術の成長を助けた〔。
しかしながら、彼の家では毎週水曜の午後にシェイマス・キャロル(Seamus Carroll)、ラリー・レディガン(Larry Redigan)、フランク・オヒギンズ(Frank O'Higgins)を含むたくさんのミュージシャンが来る音楽のセッションを父が主催しており、彼の奏法はこの家庭のプライベートな場で一層磨かれた〔。
特にシェイマス・キャロルはパディの力になり、スライゴースタイルの奏法を教えるなど進んでパディを助けた。〔
1965年に父や収集家ブレンダン・ブレスナック(:en:Breandán Breathnach)、クレアのフィドル奏者ジョン・ケリー(John Kelly)と共にドニゴールを訪れた際、パディは伝説のフィドル奏者ジョン・ドハーティの音楽に出会い、若いパディは極めて深い影響を受ける〔。
グラッキンはしばしば、彼が主な影響を受けた人物としてドハーティを引用する〔。
しかしながら、パディの音楽的影響はドニゴールに限られたものではない。彼は自身の音楽アプローチの全体の形成に重要な人物として、ジョン・ケリー、トミー・ポッツ(:en:Tommy Potts)、パドレイグ・オキーフ(:en:Padraig O'Keeffe)といったフィドル奏者も引用している。彼の父やこれらの素晴らしいフィドル奏者たちからの影響を通じて、パディは様々なアイルランドのスタイルを習得し重要なレパートリーを蓄積していった〔。
1973年、19歳のパディはフラー・キョールオールアイルランドチャンピオンを獲得した。
ダブリンでの大学生活の間に、この町の活き活きとした伝統音楽シーンは、同年代の仲間のミュージシャンたちと出会い様々な会場で演奏する機会をグラッキンに提供した〔。
彼はアコーディオン奏者トニー・マクマホン(:en:Tony MacMahon)、フルート奏者マット・モロイ、イリアン・パイプス奏者パディ・キーナン、ミホール・オドーナル(:en:Mícheál Ó Domhnaill)とトリーナ・ニゴーナル(:en:Tríona Ní Dhomhnaill)の兄妹、そしてドーナル・ラニー、その全員がアイルランド伝統音楽において卓越した経歴を歩むことになる6人と友人になった〔。
共に彼らはグループ Seachtar を結成し、それは後にボシー・バンドと改名しアイルランドを代表する伝統音楽グループの1つになる〔。
ボシー・バンドは1970年代のアイルランド伝統音楽シーンにおいて不可欠な役割を演じる〔。
18ヶ月のボシー・バンドでの演奏活動の後、グラッキンはレコーディングやツアーへの要求とのギャップからこの人気のあるグループからの離脱を決めた。これはファーストアルバム作成前であったため、ボシー・バンドのどのアルバムにも彼は参加していない。
グラッキンはアイルランド芸術振興協議会(Irish Arts Council)にてアーキビストおよび伝統音楽委員(Traditional Music Officer)の職に就いた〔。
彼は後に放送業界へ身を転じてRTÉ(アイルランド放送協会)に就職し、スポーツ番組のプロデューサー、司会者、果てには編集者として職務にあたった〔。
RTÉでの仕事と並行して、パディはアイルランド音楽の演奏やレコーディングを継続した〔。
1977年に、彼は最初のソロアルバムをゲール=リン・レコード(:en:Gael-Linn Records)にレコーディングした。シンプルに ''グラッキン''(Glackin)と題されたこのアルバムは、このジャンルの古典と考えられている。また、いくつかのトラックで父トムや兄弟ケヴィンとシェイマスが参加している〔。
ケヴィンとシェイマスはのちに ''ノーザン・ライツ''(Northern Lights、1995年)と題したデュオのレコーディングをリリースし注目されている。
グラッキンは以来、パディ・キーナンとの共作''Doublin'' (1978年)やドーナル・ラニーのプロデュースによる''In Full Spate'' (1991年)といった影響力のあるものも含む、おびただしいレコーディングをリリースしている。より最近では、1995年にイリアン・パイプス奏者ロビー・ハノン(Robbie Hannon/Hannan)との共演アルバム''Seidean Si'' を、2001年にボシー・バンド時代の旧友である晩年のミホール・オドーナルとの共演アルバム''Reprise'' をリリースしている。
グラッキンは自身の好みを伝統的なスタイルにのっとった純粋なソリストのアプローチと公言しているが、その一方で彼はアメリカの前衛作曲家ジョン・ケージのラジオ劇''ロアラトリオ''(:en:Roaratorio)やマルチ奏者ジョリオン・ジャクソン(:en:Jolyon Jackson)の晩年のレコーディング''Hidden Ground''(1980年)といったいくつもの実験的なレコーディングに参加している。特に後者はグラッキンの純粋な伝統的なフィドルに添えたシンセサイザーの使用という点で特筆されるものであり、このレコーディングは伝統的なアイルランド音楽とシンセサイザーの融合の流行を予見させるものだった。
グラッキンは演奏活動を続けており、毎年クレア州ウィリー・クランシー・サマー・スクールのワークショップで指導も行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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