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パホン : ウィキペディア日本語版
プラヤー・パホンポンパユハセーナー

プラヤー・パホンポンパユハセーナー(タイ:พระยาพหลพลพยุหเสนา、英:Phraya Phahon Phonphayuhasena、本名:ポッジ・パホンヨーティン (พจน์ พหลโยธิน)、1887年3月29日 - 1947年2月14日)は、タイ政治家軍人。第2代首相
''注:以下ではすべてパホンと表記しました。これは本来的には誤りですが、記事の可読性や日本での慣用などを考慮し採用した物です。''
== 来歴 ==

=== 首相就任まで ===
パホンは1887年3月29日、午前3時30分、チャクリー王家に代々仕えてきた家系に生まれた。タイ国内で初等教育を済ませた後父親と同じく軍人になることを志し、陸軍士官学校に入学。16歳の時に士官学校を首席で卒業し、奨学金を得てドイツの陸軍士官学校に入学。3年間の修学の後ドイツの第4大砲師団で任務に就いた。1912年にはさらに技術習得のためデンマークに留学したが、タイ政府の財政難により翌年タイ本国に呼び戻された。1914年ラーチャブリー県の第4大砲師団で勤務した。1915年にバンコクの大砲局、1917年にはチャチューンサオ県の第9大砲師団で勤務した。
1920年当時パホンは大砲技術に通じていたことから、タイ政府から日本での大砲の買い付けを依頼され、来日したことがある。このとき案内役であった日本人将校が、上野公園西郷隆盛像とパホンを見比べ、パホンが西郷と似ていると称して、「あなたはタイの大革命家になるでしょう」と言ったという逸話が残っている。
1930年には砲兵隊監察総監に就任。当時43歳の若手将校であったパホンはこの就任により陸軍幹部会に参加できるほどの高い地位に就くことになった。他方で早過ぎる昇進が妬まれ、当時最新兵器のタイ軍への採用に関する進言が王族出身の幹部によって否決されている。これを機にパホンは次第に体制に不満を抱くようになったと言われている。
1931年には亡き父親の官位欽錫名を戴きプラヤー・パホンパユハセーナーと称した。
1932年に起きた立憲革命の主体となる人民党へ参加。人民党のメンバーであったプラユーン・パモーンモントリーが、パホンの実の弟であるチャムーン・スラリット少佐を通じてハポンの勧誘を行った。チャムルーン少佐は兄のパホンが砲兵隊監察総監の任を解かれ、左遷されることになったのに不満を抱いていることを知り、まず自らの現体制に対する不満を打ち明け、兄の入党を促した。説得には、さらにルワン・ピブーンソクラームも加わった。これにより、人民党内部ではルワン・プラディットマヌータム(後のプリーディー・パノムヨン、以下プリーディー)を頂点とする文民派とパホンを頂点とする武民派の二大勢力が形成された。
後のパホン自身の回想によると、すでにパホンは中堅の軍の幹部将校として働いており、立憲革命への参加には迷いがあったと語っている。立憲革命の前夜には女傑といわれた妻にこの計画のことを漏らし、自分自身の迷いをうち明けさらに決意を語っている。パホンは立憲革命の後、政府の陸軍派閥の代表として勢力を持ち、プラヤー・マノーパコーンニティターダー(以下、マノーパコーン)首相の補佐した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Phraya Phahon Phonphayuhasena 」があります。



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