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パルデン・トンドゥプ・ナムゲル : ウィキペディア日本語版
パルデン・トンドゥプ・ナムゲル

パルデン・トンドゥプ・ナムゲル(Palden Thondup Namgyal; シッキム語:དཔལ་ལྡན་དོན་དྲུཔ་རྣམ་རྒྱལ; ワイリー表記: ''dpal-ldan don-grub rnam-rgyal''、1923年5月22日 - 1982年1月29日)は、シッキム王国(ナムゲル王朝)の第12代君主(在位1963年 - 1975年)で、最後の君主である。日本語表記としては、「パルデン・トンドゥプ・ナムギャル」もある。
== 事績 ==

=== 反インドの姿勢 ===
第11代国王タシ・ナムゲル(以下、「タシ」と略す)の次男。兄のパルジョルは1941年にインド空軍で勤務中に事故死していたため、パルデン・トンドゥプ・ナムゲル(以下、「パルデン・トンドゥプ」と略す)が後継者として育成されることになった。〔Coelho(1970)、日本語版75頁。〕
インドが独立する直前の1946年末、タシの命によりパルデン・トンドゥプは使節団を率いてインドに向かい、シッキムの地位について交渉した。当初、インド側は他の藩王国と同様にインド領へ編入することをシッキム側に提案したが、シッキム側はこれを拒否したため、1947年2月28日、シッキムとインドとの間で暫定協定が結ばれた。これによりシッキムは辛うじて独立を維持したが、国内では政治的混乱が激化していく。〔落合(1986)、147頁。Coelho(1970)、日本語版60-63頁。〕1950年12月5日、タシがインド・シッキム条約に調印したが、これによりシッキムはインドの保護国と位置づけられてしまった。〔落合(1986)、155-157頁。Coelho(1970)、日本語版60頁。〕1951年、パルデン・トンドゥプはチベットの名家の娘サンゲ・デキと結婚し、彼女との間には3人の子(息子2人、娘1人)が生まれたが、サンゲ・デキは1957年に死去している。1963年3月20日、アメリカ人女性と結婚した。〔Coelho(1970)、日本語版75ー76頁。〕彼女とのあいだには2人の子(息子1人、娘1人)が生まれた。
1963年12月4日、タシの崩御に伴い、パルデン・トンドゥプが国王として即位した。パルデン・トンドゥプはシッキムがインドの保護国たる地位に置かれていることに、皇太子時代から強い不満を抱えていた。そのためパルデンは、タシの親インド路線を転換して独立追求路線に転じ、公的な場でインド・シッキム条約改正やシッキムの自国軍事力増強を強く主張し、インド政府にもその要求を伝えた。〔落合(1986)、173-178頁、187頁。〕一方のインド側でも、パルデン・トンドゥプがホープと結婚したことは、彼女を通してアメリカから独立支援を受けることが狙いではないかとの報道がなされるなど、パルデン・トンドゥプへの不信感を醸成する環境が作り出されていった。〔落合(1986)、178頁。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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