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パーヴェル・ニコライェヴィチ・エフドキーモフ(1901年8月2日 サンクトペテルブルク - 1970年9月16日 ムードン、; ラテン文字転写一例: Pavel Nikolayevich Evdokimov, フランス語・ルーマニア語: Paul Evdokimov)は、ロシアに生まれ、フランスに亡命しフランスで活躍した、正教の神学者であり哲学者。 ウラジーミル・ロースキイとほぼ同じ世代に属し、ロースキイと同様にフランス語で著述する一方で、フランスに帰化することなく、亡命ロシア人という立場に生涯とどまった(後述)〔パーウェル・エフドキーモフ著/ 古谷功訳『ロシア思想におけるキリスト』(9頁~10頁、オリヴィエ・クレマンによるエフドキーモフの紹介・序文)あかし書房 ISBN 4870138093〕。 == 生涯 == === 幼少~青年期 === 1901年8月2日に、ロシアにおいて最もヨーロッパ化されていたサンクトペテルブルクに生まれた。父親は軍人であり貴族であり、母親も古い家柄の貴族出身〔前掲『ロシア思想におけるキリスト』(11頁 - 12頁)〕。 1907年、革命の機運が高まるロシアにおいて、反乱を起こした兵士を無防備で説得してきた、責任感の強い父エフドキーモフ大佐が、演習中に撃たれて暗殺された。父の死に顔をパーヴェルはちらと見ることが出来たが、幼いこの時の印象が、後のパーヴェルに天父の犠牲的愛とほほえみというテーマを与えることとなった〔。 パーヴェル・エフドキーモフは、母と、母なる教会(正教会)から受け継いだ信仰を疑う事は生涯なかった。幼いエフドキーモフに内的生活の手ほどきをしたのは、信仰深く神学に関心を寄せていた母であった〔。 幼少の頃から生神女、サロフの聖セラフィムをはじめとする諸聖人に神への祈り(転達)を願っていたが、青年期に入るとドストエフスキーもその願いの対象となっていた。こうした諸聖人、ドストエフスキーとの交わりは生涯続き、エフドキーモフの処女作も『ドストエフスキーと悪の問題』である〔前掲『ロシア思想におけるキリスト』(13頁 - 15頁)〕。 貴族の子弟が通う学校で教育を受け、軍人的な躾を身に付ける一方で、休暇中は母の意向により修道院で過ごした。学友との交友関係を大事にし、ツァーリを敬愛し、乗馬を趣味とする一方で、修道院での静かな生活を愛した〔。 1918年、ロシア革命の混乱期に家族とともにキエフに移った際、キエフの神学アカデミアに学んだ。当時、神学生の殆どは神品 (正教会の聖職)の子弟であり、エフドキーモフのような出自の者は珍しく、さらに、彼のように神品となる事を目指さないで神学を学ぼうとする者も珍しかった〔。 数ヵ月後、白軍に徴用され、2年間ほど騎兵として従軍したが、家族の意向で白軍の瓦解前に軍籍を離れた。戦争についての思い出は、後年になっても、厳冬に愛馬に暖められたことを除いては殆ど語らなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーヴェル・エフドキーモフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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