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パーカー大佐(パーカーたいさ、Colonel Parker)と通称される、トマス・アンドリュー・"トム"・パーカー大佐(Colonel Thomas Andrew "Tom" Parker、出生名:アンドレアス・コルネリス・("ドリエス")・ヴァン・カウク、Andreas Cornelis ("Dries") van Kuijk、1909年6月26日 - 1997年1月21日)は、オランダ生まれの芸能興行主(インプレサリオ)(impresario) で、エルヴィス・プレスリーのマネージャーだったことで広く知られている〔Strauss, Neil. "Tom Parker is Dead at 87; Controlled Presley's Career." ''New York Times.'' January 22, 1997.〕。パーカーによるプレスリーのマネジメント手法は、プレスリーの生活のあらゆる側面に関与するものであり、タレントのマネジメントを統括する役割のあり方を決定づけるとともに、プレスリーの驚異的な成功に中心的な役割を果たしたものと考えられている。「大佐(カーネル)」は、クライアントの利益のためには容赦なく相手から搾り取り、その稼ぎの中から、一般的な10%から15%という水準以上の自分の取り分を得ていた。その額は、プレスリーの晩年には、最大50%に達していたという。プレスリーはパーカーについて、「彼のためにやってたんじゃなけりゃ、俺もこんなにデカいことにはならなかったと思うよ。彼はとても賢い男さ。(I don't think I'd have ever been very big if it wasn't for him. He's a very smart man.)」と述べている〔Osborne, ''Elvis: Word for Word'', p.15〕。長年に渡り、パーカーはアメリカ合衆国生まれであると詐称していたが、実際にはオランダのブレダ生まれであることが後に明らかになった。また、音楽プロデューサーとしても活動していた。 == 生い立ち == パーカーは、アンドレアス・コルネリス・ヴァン・カウクとして、オランダのブレダで、カトリック家庭の11人兄弟姉妹の7番目に生まれた。少年の頃は、ブレダのカーニバル(謝肉祭)などで呼び込み (barker) として働き、後に芸能界で働く上で必要となった様々なスキルを身に付けた〔。 15歳でパーカーは、港で船に乗る仕事を得て、港町ロッテルダムへ移り住んだ〔。17歳のときには、「富を築く」ためにアメリカへ脱出したいという意思を見せるようになり〔、翌年には、しばらくは何とかできるくらいの金を貯めた上で、乗り込んでいた雇い主の船から跳びおりて、アメリカへ密入国した〔。この最初の渡米の際には、シャトークア (Chautauqua) のテント・ショーの一座に加わって旅をしたが、その後はオランダに短期間だけ帰国した〔。 パーカーの伝記を著したアランナ・ナッシュ (Alanna Nash) は、当時まだヴァン・カウクとして知られていたパーカーが、ブレダで殺人事件の容疑者となった、あるいは、少なくとも何らかの関与が疑われたのではないか、という疑惑があることを、後に繰り返し述べている。これが事実であれば、オランダは犯罪人引渡し条約をアメリカ合衆国と締結していたので、オランダ当局によるこの事件の追及から免れようとしたパーカーが、パスポートを取得せずに密入国を試みたのかもしれない〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トム・パーカー (マネージャー)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Colonel Tom Parker 」があります。 スポンサード リンク
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