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パーヴェル・フィローノフ : ウィキペディア日本語版 | パーヴェル・フィローノフ
パーヴェル・ニコラエヴィチ・フィローノフ(, Pavel Nikolayevich Filonov、1883年1月8日 - 1941年12月3日)は、ロシア、ソ連の画家、美術理論家。'', Pavel Nikolayevich Filonov、1883年1月8日 - 1941年12月3日)は、ロシア、ソ連の画家、美術理論家。 ==略歴== 1883年、モスクワに生まれる。1887年に父親、1896年に母親を失う。1897年にペテルブルクの姉の嫁ぎ先に移住、活動の拠点とする。1903年頃からアカデミー会員、レフ・ドミートリエフ=カフカスキーの画塾に通う。1908年から美術アカデミーで学ぶが、1910年、アカデミーを追われる。しかし、この頃から頭角をあらわし、ロシア未来派のグループのひとつ、「青年同盟」に参加、その展覧会に出品。1913年にはマヤコフスキーの悲劇「ウラジーミル・マヤコフスキー」の舞台装置を手掛けた。1914年、マニフェスト「つくられた絵画」を出版。この頃から、いわゆる「分析主義」と呼ばれる、独自の絵画理論に取り組み始める。1916年から1918年にかけて、第一次大戦における軍務に服し、ルーマニア戦線に赴く。1919年、ペトログラード冬宮(現在のエルミタージュ美術館)における「第一回国立自由芸術作品展」に参加、注目を浴びる。1922年、ベルリンにおけるロシア・ソビエト美術展に参加。1923年、マニフェスト「世界的開花宣言」を発表。1925年にはフィローノフ派である「分析的芸術工房(МАИ/マイー)」を結成、以後、様々な舞台装置のデザイン、出版物のデザインや挿絵の制作などを行う。1929年、ロシア美術館で個展が計画されるが、三年間の延期の末、中止させられる。1941年、第二次大戦におけるドイツ軍包囲のレニングラードで死去(58歳)。死因については肺炎とも餓死とも言われる。
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