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パーヴェル・ウラジーミロヴィチ・ブレ (Pavel Vladimirovich Bure、、1971年3月31日生まれ)はロシアの元アイスホッケー選手である。ポジションは右のウィンガー。その速さから「ロシアンロケット」の異名を持つ。ブレは12シーズンをナショナルホッケーリーグ (NHL) の バンクーバー・カナックス、フロリダ・パンサーズおよびニューヨーク・レンジャーズでプレーした。NHLに移籍する前はソビエト連邦のCSKAモスクワで3シーズンをプレーした。 1989年、NHLのドラフト113位でバンクーバー・カナックスに指名された。最初のシーズンに最優秀新人賞のカルダー記念賞を受賞。 1994年にスタンレー・カップを獲得する。カナックスで7シーズンを過ごした後フロリダ・パンサーズに移籍、2年連続で得点王としてモーリス・リシャール賞を受賞。2005-2006年のシーズンを前にして、膝の慢性的な障害を理由に34歳で引退を表明。 NHLの定期試合で702試合に出場し779ポイント(437ゴール342アシスト)を記録した。200点以上のパックを打ちこんだ選手の中では1試合当たりの得点数において、ブレはNHL歴代5位を占める。NHLオールスターゲームに6回出場し、2000年にはオールスターゲームの最も貴重な選手に与えられる賞を獲得した。 国際大会においてはソヴィエト代表、後にロシア代表として出場。ソヴィエト代表として1989年にU20世界選手権で優勝、1990年と1991年は準優勝を成し遂げた。 ロシア代表として1990年の世界選手権で優勝。1991年は銅メダルを獲得した。ソヴィエト崩壊後は1998年にロシア代表として長野オリンピックに出場、銀メダルを獲得。2002年のソルトレークシティオリンピックでは銅メダルを獲得した。 2006年のトリノオリンピックではロシア代表チームのジェネラル・マネージャーとして参加。 2002年にIIHFのホッケーの殿堂入り。 NHLのチームから背番号(10番)が永久欠番になった最初のロシア人選手である。 == 生い立ち == === ソヴィエト連邦 === パーヴェル・ブレは1971年3月31日、ミンスクの第3市立病院で生まれた。両親はモスクワに暮らしていたが、ミンスク育ちの母親は出産のためにミンスクに移動した。しかしブレがインタビューで何度も確認しているように、彼の出生届にはモスクワ出生と記載されている。父のウラジーミルは水泳選手でオリンピック4冠、ソビエト選手権17冠だった。祖父のワレーリーは水泳のコーチだった。 6歳の時にHC CSKAモスクワの少年チームでアイスホッケーを始める。1988年、CSKAの中心選手としてディナモ・リガとの試合でデビュー。試合開始4分でブレは最初のパックを打ちこんだ。ブレは4シーズンの間にCSKAで2度のソヴィエトチャンピオンになり、3度ヨーロッパ選手権で優勝した。最も活躍したのは最後のシーズンで、平均すると1試合で1ポイント以上を記録した(出場44試合で46ポイント)。 1989年、U20世界選手権でデビューし優勝。それだけでなくブレ-フョードロフ-モギリヌイのトロイカが国際試合でデビューした大会になった。トロイカは存分に結果を出し、19ゴール38ポイントを記録。ブレ自身は8ゴール6アシストを決め、大会のベストフォワードに選ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーヴェル・ブレ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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