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ヒセラ・ドゥルコ(Gisela Dulko, 1985年1月30日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の女子プロテニス選手。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルスで2011年全豪オープンを含む17勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス1位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。赤土のクレーコートを最も得意にした。 == 来歴 == ドゥルコは7歳の時、兄のプレーを見てテニスを始めた。2000年に15歳で女子テニス国別対抗戦・フェドカップに初出場し、2001年1月に16歳でプロ入り。ジュニア選手のトーナメントでは、4大大会のジュニア女子ダブルス部門で3勝を挙げ、2000年全米オープン・2001年ウィンブルドン・2002年全豪オープンのジュニア女子ダブルス優勝者になった。2003年4月、モロッコ・カサブランカ大会のダブルスでマリア・エミリア・サレルニ(同じアルゼンチンの選手)と組んでツアー初優勝を果たす。この後全仏オープンで4大大会本戦にデビューした。 2004年、ドゥルコは4年ぶり2度目のフェドカップ代表選手に起用され、チームを「ワールドグループ」準々決勝まで導いた。それからアテネ五輪にもアルゼンチン代表として出場し、女子シングルス1回戦でクロアチア代表のカロリナ・スプレムに 6-7, 5-7 のストレートで敗れた。2005年1月、オーストラリア・ホバート大会で初の女子ツアー大会シングルス決勝に進んだが、ここでは鄭潔(中国)に 2-6, 0-6 で完敗した。直後の全豪オープンで、彼女は初めて「第29シード」に選出された。同年10月、ドゥルコはダブルスで3大会連続優勝を達成する。最初はジャパン・オープン女子ダブルスでマリア・キリレンコと組み、決勝で浅越しのぶ&マリア・ベント=カブチ(ベネズエラ)組に 7-5, 4-6, 6-3 で勝った。翌週のタイ・バンコク大会では浅越と組み、スペインペアのコンチタ・マルティネス&ビルヒニア・ルアノ・パスクアル組を破って2週連続優勝を果たす。2週間後にはオーストリア・リンツ大会でクベタ・ペシュケ(チェコ)と組み、マルティネス&ルアノ・パスクアル組に2連勝した。 2006年の全豪オープン女子ダブルスで、ドゥルコはマリア・キリレンコと組んでベスト8に入った。この後全仏オープンで4回戦に進み、アンナ=レナ・グローネフェルド(ドイツ)に 3-6, 4-6 で敗れた。2007年4月、彼女はハンガリー・ブダペスト大会の決勝でソラナ・チルステア(ルーマニア)を 6-7, 6-2, 6-2 で破り、ここで女子ツアー大会のシングルス初優勝を達成した。それから全仏オープン女子ダブルスでマリア・エレナ・カメリン(イタリア)と組み、杉山愛&カタリナ・スレボトニク(スロベニア)組との準々決勝まで勝ち進む。8月末にアメリカ・フォレストヒルズ大会でシングルス2勝目を挙げた。2008年は北京五輪で2度目のオリンピック出場を果たし、シングルス1回戦・ダブルス2回戦敗退の成績に終わっている。 2010年はフラビア・ペンネッタと組みWTAツアー選手権などダブルスで8勝し、ダブルスランキングを1位に上げた。 2011年の全豪オープン女子ダブルスでペンネッタとドゥルコは第1シードから勝ち進み、決勝でビクトリア・アザレンカ&マリア・キリレンコ組を 2–6, 7–5, 6–1 で逆転勝ちして4大大会初のタイトルを獲得した。2月のアカプルコ大会では決勝でアランチャ・パーラ・サントンハを 6–3, 7–6(5) で破り3年ぶりのシングルス4勝目を挙げた。ドゥルコは7月にアルゼンチン代表のサッカー選手であるフェルナンド・ガゴと結婚した。全米オープンではエドゥアルド・シュワンクと組んだ混合ダブルスで決勝に進出したが、アメリカのメラニー・ウダン&ジャック・ソック組に 6–7(4), 6–4, で敗れ準優勝となった。 2012年11月18日に公式サイトで現役引退を発表した。2013年6月に第1子の長男を出産している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒセラ・ドゥルコ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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