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ヒュダスペス河畔の戦い : ウィキペディア日本語版 | ヒュダスペス河畔の戦い[ひゅだすぺすかはんのたたかい]
ヒュダスペス河畔の戦い()は、紀元前326年に行われたアレクサンドロス3世(大王)率いるアルゲアス朝(マケドニア王国)およびインド諸侯の連合軍(以下、「アレクサンドロス軍」と表記)と現代のパンジャーブ地方一帯の領主で(Paurava)首長であったポロス率いる反アレクサンドロス・インド諸侯軍(以下は「ポロス軍」と表記)との戦いである。「ヒュダスペス川の戦い」とも称される。アレクサンドロス軍にとってガウガメラの戦い以来となる戦象を擁する軍との対戦であり、アレクサンドロスにとっては最後の主要な一戦となった。 == 概要 ==
=== 開戦まで === ペルシア帝国を滅ぼし、ペルシアの残党をヒンドゥークシュで討伐したアレクサンドロスはインダス川を渡り、インドに対する侵攻作戦を開始した。アレクサンドロスがこの時に率いた軍勢は135,000〔Harbottle estimates as high as 135,000 soldiers in total(英語版)〕や41,000〔Welman estimates 41,000 soldiers in total(英語版)〕や46,000〔Guha estimates 46,000 soldiers in total(英語版)〕と資料により差があるが、いずれにしても大軍であった。アレクサンドロス軍はインダス川とヒュダスペス川(現:)の間にある町で最も大きな規模を有し、ガウタマ・シッダールタが度々治療に訪れ、ギリシアにも名が届いていたタキシラ(現:ラーワルピンディー近郊)に入り、タキシラの首長・(、)らの歓迎を受けた。 タキシラで暫く過ごしたアレクサンドロスであったが、ヒュダスペス川からアケシネス川(現:)に至る一帯の支配者であったポロスは、ヒュダスペス川近くの領主であったスピタケス(Spitaces、Spitakes)らと共にアレクサンドロスに対抗する姿勢を見せて、アレクサンドロスによるヒュダスペス川の渡河を阻止すべく、軍勢を率いて対岸に陣を構えた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒュダスペス河畔の戦い」の詳細全文を読む
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