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ヒヴァ・ハン国(-こく、)は、1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる〔本田「ヒヴァ・ハン国」『アジア歴史事典』8巻、1-2頁〕〔堀川「ヒヴァ・ハン国」『中央ユーラシアを知る事典』、439-440頁〕。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもある〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、245頁〕。 == 歴史 == === チンギス裔の王朝 === ヒヴァ・ハン国の建国者イルバルスは、ウズベク国家のブハラ・ハン国(シャイバーニー朝)の創始者アブル=ハイルと別の家系に属する。イルバルスの一族はアブル=ハイル家と敵対関係にあり、1500年にシャイバーニー朝のハンに即位したムハンマド・シャイバーニー・ハンの遠征事業にもイルバルスの一族は参加しなかった〔セミョノフ「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』、117頁〕。 1510年にシャイバーニー・ハンがサファヴィー朝との戦闘で敗死したとき、シャイバーニー朝が領有していたホラズム地方はサファヴィー朝の支配下に入った。この時にホラズムの住民はイルバルスと彼の兄弟であるバイバルスを呼び、サファヴィー朝からの解放を願い出た〔。1512年にイルバルスは、サファヴィー朝に一時奪われていたホラズム地方を奪回し、麾下のウズベク諸部族を中核として、トルクメン系遊牧民、オアシス都市のイラン系、テュルク系の定住民を支配下に置き、王朝を樹立した〔。しかし、ホラズム地方で定住生活を営んでいたイラン系の住民はサファヴィー朝の支配を支持し、しばらくの間イルバルスに抵抗していた〔セミョノフ「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』、117-118頁〕。1559年にヒヴァとブハラの使節がモスクワを訪れ、ウズベク国家とロシアの交流が始まった〔江上『中央アジア史』、520頁〕。ロシアからは中央アジアのロシア人奴隷を買い戻す使者が送られ、ヒヴァのハンはロシアに武器・鉛・鷹を求めた〔。 17世紀前半にはカザフやオイラト(カルムィク)といった遊牧民の侵入と王室の内訌に苦しみ〔堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、170頁〕、イランの王朝やブハラ・ハン国との抗争で内情は不安定な状態に置かれていた〔。1593年(1594年)にホラズム地方はブハラ・ハン国によって一時的に占領される〔堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、159頁〕。 また、1570年代にアムダリヤの水路の変化によって首都のクフナ・ウルゲンチは衰退し〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、244頁〕、アラブ・ムハンマド(在位1603年 - 1621年)の治世の初期にウルゲンチはコサックから略奪を受けた〔セミョノフ「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』、162頁〕。アラブ・ムハンマドの治世の末期にヒヴァに遷都された〔。1621年、アラブ・ムハンマドは子のハバシュとイルバルスによって廃位される〔。イルバルスは追放され、トルクメン人から支持を受けた王子イスファンディヤールが即位するが、イスファンディヤールはハン位をうかがう兄弟と戦わなければならなかった〔セミョノフ「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』、162-163頁〕。 1643年に即位したアブル=ガーズィーは1645年に国内のトルクメンを虐殺し〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、247頁〕、彼らに代わってウズベク族出身のアミール(軍事貴族)を要職につけて国内を安定させる〔。1645年にはクフナ・ウルゲンチの商業機能を受け継いだ新ウルゲンチが南に建設され、交易都市として発展していく〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、244-245頁〕。アブル=ガーズィーは内紛で混乱するブハラ・ハン国に7回の遠征を行い〔、ロシアなどの近隣の国家と通交した〔堀川徹「アブル・ガーズィー」『中央ユーラシアを知る事典』、30頁〕。 1714年からロシア帝国のピョートル1世の命令を受けたチェルケス人将校ベコヴィチ・チェルカスキー(デヴレト・ギレイ)が、中央アジアのカスピ海東岸地域を調査し、現地に要塞を建設していた。1717年にベコヴィチがヒヴァ遠征を行った際、当時のハン・シール・ガーズィーはベコヴィチを欺いてロシア軍を壊滅させ、彼を殺害した〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、313頁〕。1720年にシール・ガーズィーはロシアに謝罪の使者を送るが、使者はサンクトペテルブルクの牢に幽閉され、獄死した〔ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、316頁〕。 18世紀には遊牧民の侵入、王家の内紛に加えて、ウズベクとトルクメンの対立とロシアの介入がハン国を苦しめた〔。ヨムト部族をはじめとするトルクメンの略奪によって、ハン国の領土は荒廃する〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、249頁〕。 1728年に、創始者のイルバルスとは別の家系の出身であるカザフ族のイルバルス2世がハンに選出される。1720年代末からイランで台頭したアフシャール朝のナーディル・シャーの攻撃に対して、ブハラとは反対にヒヴァは激しく抗戦した〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、248頁〕。1736年にアフシャール朝の王子レザー・クリーが中央アジアに侵入すると、イルバルス2世はブハラの軍と連合して勝利を収める。ブハラがナーディル・シャーに降伏した後、ヒヴァの宮廷に降伏を勧告する使者が送られると、イルバルス2世は使者を処刑して拒絶の意思を示した〔ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、264頁〕。しかし、1740年にヒヴァはナーディル・シャーに占領され、イルバルス2世は処刑された。1740年から1747年までの間、ハン国はアフシャール朝に従属する〔江上『中央アジア史』、512頁〕。 18世紀後半に入ったころのハン国は領内が荒廃しており、ヒヴァの建造物は廃墟となって住民の数は減少した〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、249頁〕。カザフ出身のハン・カイプは王権を回復するために実権を握っていたアミールのアタリク・フラズ・ベクと、彼の出身部族であるマンギト部の人間を処刑した〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、267頁〕。しかし、課税に反発したハン国の住民が暴動を起こしたため、カイプはカザフスタンに逃亡した〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、267-268頁〕。新たにハンとなったカイプの兄弟カラバイは、ブハラ・ハン国の仲裁によって、1757年(1758年)にブハラの傀儡であるテムル・ガーズィーをハンとすることで反乱者と和解した〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、268頁〕。 1763年からは、コンギラト族出身のイナク(宰相)のムハンマド・アミーンが実権を握った〔〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、268-269頁〕。国内の反乱によってムハンマド・アミーンは一時的にブハラに退避するが、ブハラのアタリク(宰相)であるダーニヤール・ビーより支援を受けることができた。1770年にムハンマド・アミーンはトルクメンのヨムド部族に勝利し、国内の安定を回復してヒヴァの再建に着手した。ヒヴァの歴史家たちは、ムハンマド・アミーンの勝利がハン国の復興の転機となったと考えた〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、269頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒヴァ・ハン国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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