|
ビアク島の戦い(ビアクとうのたたかい, Battle of Biak, 1944年5月27日 - 8月20日〔アメリカ軍のビアク島作戦終了の発表日〕)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線における戦闘の1つ。 アメリカ軍は、マリアナ諸島への進攻に先立ち、飛行場確保などを目的としてニューギニア北西部のビアク島へ上陸した。これに対して日本軍の守備隊はよく抵抗を続け、1か月以上も飛行場の使用開始を許さなかった。しかしこの善戦はマリアナ沖海戦の結果には結びつかなかった。 == 背景 == ビアク島はニューギニア北西部ヘルビング湾(現在のセンデラワシ湾)湾内の最大の島である。東西は約90キロ、南北は約40キロである。南緯1度の赤道直下に位置し、全島が熱帯雨林に覆われている。地形は石灰岩質で、広く平坦な飛行場適地を有し、日本軍から見ればフィリピンから東部ニューギニアの最前線へ至る飛行経路上の、連合軍から見ればパラオとフィリピン南部とを爆撃圏に収める要衝であった。日本軍は1943年以降ビアク島に「モクメル飛行場」の設営を進めていた。同飛行場は第一から第三まであった。 1943年9月、日本軍はビアク島を含む豪北方面(インドネシア東部)を絶対国防圏の一角に指定し、この地域の守備に第2方面軍(方面軍司令官:阿南惟幾中将)及び第2軍(軍司令官:豊島房太郎中将)をあてた。西部ニューギニアへは12月に第36師団(師団長:田上八郎中将)が進出し、うちビアク島には歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊(支隊長:葛目直幸大佐)が分派された。ビアク支隊は海岸線の後方、飛行場を見下ろす台地に東西2つの巨大な鍾乳洞を発見し、西洞窟に司令部を定めた。 日本軍はさらに北支から第35師団(師団長:池田浚吉中将)をビアク島へ転用し、玉突きでビアク支隊をニューギニア本島へ合流させる計画を立てていた。しかし1944年4月、第35師団の輸送作戦である「竹輸送」は潜水艦攻撃を受けて手痛い打撃を被り、ビアク島には到達できなかった。 アメリカ軍の上陸までに日本軍がビアク島へ配備できた兵力は陸軍10,400名、海軍1,947名を数えたが、その過半は飛行場設営隊や海上輸送隊、開拓勤務隊など後方勤務部隊が占め、戦闘部隊は歩兵第222連隊を中心に、海軍陸戦隊を加えても4,500名に過ぎなかった。 その頃ダグラス・マッカーサー大将の率いる南西太平洋方面連合軍は、西部ニューギニアを経てフィリピンへ向かう反攻作戦を推し進めていた。マッカーサー軍は4月22日にニューギニア島北部のホーランジア(現在のジャヤプラ)へ、5月17日にサルミへ上陸し、次の照準をビアク島に定めた。6月中旬にチェスター・ニミッツ大将指揮下の部隊のサイパン進攻が予定されており、マッカーサー軍には、それまでにビアク島の飛行場を確保してニミッツ軍を支援するよう期待がかかっていた。アメリカ軍は占領したホーランジアの飛行場を拠点に4月28日以降ビアク島に対して連日の空襲を加えた。 日本軍では、ホーランジア失陥により、大本営陸軍部が絶対国防圏をニューギニア島西端のソロンまで引き下げる方針を決定した。だが阿南方面軍司令官はこの措置を不満とし、大本営海軍部の構想に乗ってビアク島を死守する方針を持っていた。海軍の構想とは、アメリカ太平洋艦隊主力をパラオ近海へ誘い込み、機動部隊と基地航空隊によって撃破するという「あ号作戦」である。大本営陸軍部も結局阿南中将の方針を追認することになる。 海軍の作戦は、アメリカ軍がビアク島へ進攻してくれば、海上機動第2旅団(旅団長:玉田美郎少将)を増援に送り込む「渾作戦」を実施して決戦場に仕立て上げ、アメリカ軍主力を誘引するというものであった。5月25日、連日の激しい空襲の中、第2方面軍参謀長沼田多稼蔵中将がビアク島を訪れ、この作戦について葛目大佐らと打ち合わせた。27日早朝、沼田中将の乗機がビアク島から離陸しようとしたそのとき、連合軍の大船団が沖合いに現れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビアク島の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|