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ビクター・リベラ(Victor Rivera、1944年5月25日〔『THE WRESTLER BEST 1000』P175(1996年、日本スポーツ出版社) 〕 - )は、プエルトリコ出身の元プロレスラー。アフリカ系ラテンアメリカ人のベビーフェイスとして、WWWFやNWAロサンゼルス地区を主戦場に活躍した。 == 来歴 == 少年時代の1954年に一家でアメリカのニューヨークに移住。同じプエルトリコ出身のペドロ・モラレスに憧れ、1964年に地元ニューヨークのWWWF圏でデビュー〔。以降、テキサス、ジョージア、カンザスなど各地を転戦し、1967年にはロサンゼルスのWWAにてモラレスとプエルトリカン・コンビを結成、7月29日にカール・ゴッチ&マイク・デビアスを下し、WWA世界タッグ王座を獲得した。同年11月には日本プロレスに初来日している。 1969年にニューヨークへ凱旋。WWWF世界ヘビー級王座戴冠に伴いタッグのタイトルを返上したブルーノ・サンマルチノの後任として、12月9日にWWWFインターナショナル・タッグ王座に就いた(パートナーはトニー・マリノ)。以降、WWWFではプロフェッサー・タナカ、イワン・コロフ、キラー・コワルスキー、ワルドー・フォン・エリック、ジョージ・スティールなどのヒールと対戦した。 翌1970年6月にザ・モンゴルズ(ジート・モンゴル&ベポ・モンゴル)に敗れてタイトルを失ってからは、WWAの後継プロモーションであるNWAロサンゼルス地区に定着。1972年12月1日、アーニー・ラッドから同地区のフラッグシップ・タイトルだったアメリカス・ヘビー級王座を奪取する。以降1980年代初頭にかけて、テリー・ファンクやジョン・トロスらを破り同王座を通算6回獲得した〔。 並行して古巣のWWWFにも参戦し、1975年5月13日にはドミニク・デヌーチとのコンビでバリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント&ジョニー・バリアント)からWWWF世界タッグ王座を奪取。以降、ボビー・ダンカン&ブッチャー・バションやザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)などのチームを相手に防衛戦を行ったが、同年夏にWWWFを離脱して新団体のIWAに移籍、タッグ王座の後任にはパット・バレットが起用されることになった〔。 この間、1973年9月に新日本プロレスに初参戦し、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦、以降も新日本の常連外国人となり、1976年4月開幕の第3回ワールドリーグ戦では坂口征二、キラー・カール・クラップと同点のリーグ戦2位の戦績を残した。また、最終戦の5月13日、大阪府立体育館にて盟友ペドロ・モラレスと組み、坂口&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦している〔。新日本のリーグ戦では1979年4月の第2回MSGシリーズにも出場したが、このときは予選トーナメントで敗退し、決勝リーグに進むことはできなかった。 アメリカでは1976年下期にWWWFへ復帰、ミッドカードのポジションで活動していたが、1978年秋よりフレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えてヒールに転向。同年10月14日にはフィラデルフィアにてボブ・バックランドのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。スパイロス・アリオン、バロン・シクルナ、スタン・スタージャックらをパートナーに、トニー・ガレア&ラリー・ズビスコが保持していたWWWF世界タッグ王座にも再三挑戦している。長年に渡ってベビーフェイスの黒人スターとして活躍してきたロサンゼルスでも、アレン・コージやジ・エンフォーサー、オックス・ベーカーなどのヒールと組んで観客のブーイングを浴びた。 1981年7月には全日本プロレスに来日、同月23日に富山県の魚津市総合体育館にて、ルーファス・ジョーンズとの黒人コンビで佐藤昭雄&石川隆士のアジアタッグ王座に挑戦した。全日本には1982年10月にも参戦、これが最後の来日となった(日本には通算8回来日)。 1984年からは、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米サーキットを開始したWWFのロサンゼルス地区における興行に単発出場。その後1987年にACCWなる団体を主宰し、自らも同団体のヘビー級王者となって活動したが、1989年の団体崩壊に伴いプロレスリング・ビジネスから引退した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビクター・リベラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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