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ビクトリアクラウンは日本中央競馬会 (JRA) に登録されていた競走馬。現在のGIに相当する競走の勝利はエリザベス女王杯のひとつだけだが、その能力の高さから「幻の三冠牝馬」と称された。 ※馬齢は旧表記で統一する。 ==生い立ちと戦歴== 戦前からのエリート牝系であるビューチフルドリーマー系で1962年度オークス馬オーハヤブサの仔・ワールドハヤブサと当時の種牡馬リーディング上位のファバージとの間に生まれた栗毛の牝馬は生産者の千代田牧場の自信作で、馬名はこの馬だ、という産駒に巡り会うまで取っておいたものだという。彼女は「牝馬作りの名人」と称された稲葉幸夫厩舎に預けられ、レースではこれまた牝馬との相性がいい嶋田功とコンビを組む(5歳の有馬記念以外は全て嶋田が騎乗)。稲葉はビクトリアクラウンの素質を早くも見抜き、「その強さや素質のよさなら(自ら手がけた)テイタニヤやテンモンより上」と語っていたほどであった。 3歳夏に新潟競馬場でデビュー。デビュー戦はいれ込みが激しく、返し馬すらできない状態での惨敗だったが、2戦目で初勝利を挙げ、続く新設重賞の新潟3歳ステークスを快勝。年末の平場オープン戦にも勝ち、4戦3勝でこの年の最優秀3歳牝馬に選ばれた。 4歳初戦のクイーンカップも1番人気に応えて快勝し、間違いなく牝馬クラシック戦線の中心になると見られたが、桜花賞の10日前の調教で左前脚剥離骨折というアクシデントが発生、春のクラシックを棒に振ってしまう。 怪我の癒えたビクトリアクラウンは4歳秋のクイーンステークスから戦線に復帰し、その復帰初戦を快勝すると次戦は古馬牝馬との対決となった牝馬東京タイムズ杯。しかしこの年の安田記念を勝っているスイートネイティブの2着に終わり、連勝は「5」でストップしてしまった。 そして迎えたエリザベス女王杯だが、4歳牝馬戦線は春とは大きく変わっていた。桜花賞馬リーゼングロス、オークス馬シャダイアイバーの2頭は戦線を離脱、1番人気は4歳牝馬ながら京都大賞典を制している桜花賞2着馬メジロカーラで、ビクトリアクラウンは2番人気。しかしレース内容は全くスキを見せることなく2着のミスラディカル以下に完勝。続く有馬記念でもヒカリデュールの5着に入り、この年の最優秀4歳牝馬として表彰された。 ところが5歳になると女王の輝きは失われてしまい、5戦して全くいいところがなかった。結局6歳のAJC杯を最後に現役を引退、故郷の千代田牧場に繁殖牝馬として帰ることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビクトリアクラウン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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