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ビクトル・ハネスク : ウィキペディア日本語版
ビクトル・ハネスク

ビクトル・ハネスクVictor Hănescu, 1981年7月21日 - )は、ルーマニアブカレスト出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス2勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス92位。身長198cm、体重85kgの長身選手。
== 来歴 ==
ハネスクは7歳からテニスを始めたきっかけについて、自ら「7歳の時、バスケットボールのクラブに入りたくなった。背は高かったが(バスケットボールをするには)まだ幼すぎると言われ、すぐ近くにあった2面のテニスコートを見て、代わりにテニスを始めた」と話している。2000年に19歳でプロ入り。2001年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップルーマニア代表選手に選ばれ、以来11年連続で団体戦出場を続けている。2003年全仏オープン4大大会に初出場し、全仏とウィンブルドンの2大会連続で3回戦に進出した。この後2004年アテネ五輪でオリンピック初出場を果たす。
ビクトル・ハネスクが世界的な知名度を獲得したのは、2005年全仏オープンのベスト8進出である。当時世界ランキング90位だったハネスクは、4回戦でダビド・ナルバンディアンアルゼンチン)を 6-3, 4-6, 5-7, 6-1, 6-2 で破る勝利を挙げた後、第1シードのロジャー・フェデラーに 2-6, 6-7, 3-6 のストレートで敗れた。ところが、2006年2月のデビスカップ「ワールドグループ」1回戦で、ハネスクはアメリカ代表との対戦中に腹部の靱帯断裂を起こしてしまい、第3試合のダブルス戦を途中棄権した〔Davis Cup - Tie details - 2006 - USA v Romania 〕。同時に背中の故障を患った彼は、2006年5月から長期間の戦線離脱を経験し、世界ランキングも大幅に下降した。2007年10月のデビスカップ「ワールドグループ・プレーオフ」で、ルーマニア・チームは対日本戦のため大阪府門真市なみはやドームでプレーしたことがある。ハネスクは鈴木貴男との第1試合を落としたが、最終第5試合で添田豪を 6-3, 5-7, 7-6, 7-6 で下し、ルーマニアは日本を退けてワールドグループ残留を決めた〔Davis Cup - Tie details - 2007 - Japan v Romania 〕。
2008年夏、ハネスクはついに男子ツアーのタイトルを獲得し、7月第1週のスイス・グスタッド大会決勝でイーゴリ・アンドレエフロシア)を破ってシングルス初優勝を決めた。翌週のオーストリアキッツビュール大会では、ジェームズ・セレターニアメリカ)と組んでダブルス初優勝を達成する。2度目のオリンピック出場となった北京五輪では、シングルスでガエル・モンフィスフランス)との2回戦に進んだ。2009年全仏オープンで、ビクトル・ハネスクは初めて「第30シード」に選ばれ、4年ぶりの全仏4回戦に進出した。3回戦で地元フランス人選手の第7シード、ジル・シモンを 6-4, 6-4, 6-2 のストレートで圧倒したが、続く4回戦ではフェルナンド・ゴンサレスチリ)に 2-6, 4-6, 2-6 で完敗し、4年ぶりの準々決勝進出はならなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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