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東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブル)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。 == 名称 == この国家(およびその類似概念)については、いくつかの呼び方が行われている。 ; ローマ帝国 :この国家の政府や住民は自国を単に「ローマ帝国 (ラテン語:, ギリシア語:)」と称していた。ローマ帝国本流を自認する彼らが「ビザンティン帝国」、「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない〔「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P23))〕。後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 ()」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人 ()」(「ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる〔尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年、p.1〕)ではなく「ローマ人 ()」を称していた。 ; 東ローマ帝国 :古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。395年のテオドシウス1世の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった〔なお、分割統治した当初はあくまでもそれまでの分割統治同様、一つの帝国を二人で分割統治する体制と捉えられていた。例えば、は443年に地震で破損したローマ市のコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。本村凌二編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233〕。これ以降の帝国の「東の部分」を指して、「東ローマ帝国」という通称が使われている。 ; ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国 :ローマ国家自体は古代から1453年まで連綿と続いたものであり、上述の通り「東ローマ帝国」の住民も自らの国家を「ローマ帝国」と認識していた。ところが、この時期のこの国家は「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いがあまりにも顕著となっていたため、便宜上、別の名称が使用されるようになった〔「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も古代ギリシア・ローマ時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」[井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』(京都大学学術出版会 P5))〕。「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい19世紀以降に使われるようになった通称である。いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。「ビザンティン」は英語の形容詞 に、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 〔ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。〕、「ビザンティオン」は古典ギリシア語の名詞に由来している。日本語での呼称は、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。「ビザンティオン帝国」は、英語やドイツ語表記よりも古典ギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている〔例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。〕。ただし、この呼称は6〜7世紀以降のこの帝国を指して使われることが多く、その点で、4世紀末以降の「東ローマ帝国」とはややその概念を異にしている〔「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権のテマが各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」(井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P71-72))〕。 ; ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国 :カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた〔カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。〕。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。また、例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において蘭書『魯西亜国誌』( ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。 ; 中世ローマ帝国 :この国家を「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」「ギリシア帝国」と呼ぶのは中立的でないとし、少なくとも日本における呼称としては適切でないとする見解が日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた〔梅田良忠編『東欧史(世界各国史13)』(山川出版社、1958年)〕。この呼称はなかなか普及しなかったが、1980年に渡辺金一が普及力の強い岩波新書における自らの著書の題名に冠した〔渡辺金一『中世ローマ帝国―世界史を見直す—』 (岩波書店、1980年)。〕ことにより、一般の読書人にも知られるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東ローマ帝国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Byzantine Empire 」があります。 スポンサード リンク
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