|
ビザンティン建築(ビザンティンけんちく、)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式である。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。 ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。 キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやセルビアなどの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならずロシアあるいはアルメニアやグルジアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。 == 概要 == ビザンティン建築を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指しているが、「東ローマ帝国」「ビザンツ(ビザンティン)帝国」といった呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。 4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれている。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造した。ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにない全く新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であるといえる〔J・B・ウォード・パーキンズ『図説世界建築史ローマ建築』p225〕。 しかし、イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換に伴ってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。初期のビザンティン建築が勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあるといえる〔『図説西洋建築史』p49「古代最後の輝き」。〕のに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため〔この時代の歴史については不明な部分が多いが、帝国の社会構造と文化が変容したことは疑いない。東ローマ帝国の政治・社会的状況については、ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンティン帝国史』、J.M.ロバーツ『世界の歴史4ビザンティン帝国とイスラーム文明』p86-p92など。および東ローマ帝国の項を参照。〕、この暗黒時代をビザンティン建築の一つの分岐点とする指摘もある〔C・マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p5。ただし、著者自身は7世紀以後をビザンティン建築と区分する方が都合がよいとしつつも、ユスティニアヌス帝の時代を含めた4世紀以降をビザンティン建築として記述している。N・ペヴスナー『世界建築辞典』p358「ビザンティン建築」では、ユスティニアヌス帝の時代を初期キリスト教の絶頂期かつビザンティン建築の胎胚期とする。R・クライトハイマーはユスティニアヌス帝の時代である6世紀をビザンティン建築の始まりとする。Eary Christian and Byzantine Architecture, p204〕。 中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。 9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったが〔11世紀にスクィンチ式の建築が構成されるなどの革新もあり、建築活動が停滞していたというわけではないが、この頃のビザンティン建築はおよそ400年に渡ってきわめてゆっくりと変化した。『図説世界建築史5ビザンティン建築』p135およびp181。〕、十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷との繋がりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになった。帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見されるが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなった。 東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述がほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか造らなかったわけではない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビザンティン建築」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|