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ビシャーラ・ハリール・アル=フーリー(、、1890年8月10日-1964年1月11日)は、フランス委任統治時代から独立後まで活躍したレバノンの政治家である。キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)の出身であり、委任統治時代には、2度、レバノンの首相を務めた。宗派を同じくするエミール・エッデとは、シャルル・ダッバス大統領時代に、ダッバス後継の座を争った。 エッデとは対照的に、フーリーの政治スタンスは、いわゆる「大レバノン」を維持するためには、イスラームのリーダーとの強調が必要であるという姿勢を採った。そのため、1936年1月、大統領選出のための議会での投票においては、1票差でエッデに敗れてしまった。 1943年、フランスへの依存を強めるエッデの姿勢に対し、フーリーの姿勢はレバノンの完全独立の達成にあった。9月、大統領に選出されたが、フーリーの大統領就任をフランスは、快く思っていなかった。フランスは、フランス海兵隊とセネガル軍を派遣し、フーリーを逮捕し、さらに、11月11日には、宿敵であるエッデの逮捕に踏み切った。だが、フーリーの逮捕は、主要6宗派の団結をもたらすという結果に終わり、11日後、フーリーは釈放され、11月22日に大統領に返り咲いた。フーリーの釈放の日が現在、レバノン独立の日とされている。 フーリー時代のレバノンは、首相をスンナ派出身のリヤード・アッ=スルフが務め、各宗派間のバランスをとる政治運営が行われた。レバノンの不文律は、1943年のペトロ・トゥラード大統領の議席案(国会議席を55議席とし、6対5の比率でマロン派とムスリムで分け合う)、大統領、首相、国会議長のポストをそれぞれ、マロン派、スンナ派、シーア派が分け合うというものであり、この慣習は、1989年のターイフ合意まで継続された。このバランスの上で、1948年に導入された為替及び自由経済政策は、レバノン経済の繁栄をもたらした。 だが、宗派間のバランスをとりながらの政権運営は、腐敗に陥りやすいという欠陥を持っていた。フーリー政権もその側面を否定することは出来ず、1948年に勃発した第一次中東戦争でレバノンは、イスラエルに完敗し、アラブの大義を失うなどの失態も演じた。また、10万人規模のパレスチナ難民の受け入れは、将来のレバノンにおいては人道的に評価されるものの今後のレバノンの政治運営に禍根を残した。 フーリーの権威の失墜は、1951年7月のスルフの暗殺に始まる。スルフの存在がムスリムの不満をそらすことを可能としたが、その存在がなくなったことで、ムスリムの意見をまとめる人間がいなくなったことを意味し、ドゥルーズ出身のカマール・ジュンブラートの台頭を許すこととなった。 翌年、政権運営が困難になったフーリーは、9月18日に大統領を辞任し、フアード・シハーブ暫定政権を経た後(4日間)に、同じくマロン派のカミール・シャムーンが本格的な政権を行う形となった。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビシャーラ・アル=フーリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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