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ビセンテ・セルバンテス : ウィキペディア日本語版
ビセンテ・セルバンテス
ビセンテ・セルバンテス(Vicente Cervantes Mendo、1758年 - 1829年7月28日)は、スペイン生まれの植物学者である。メキシコに渡り、活動した。
==略歴==
サラマンカ県のレドラダの出身で医師の息子とされる〔La Gaceta: ''La villa celebrará en noviembre el 250 aniversario de Vicente Cervantes''. Tageszeitung vom Sonntag, 9. März 2008, S. 25〕。マドリードで学び、マドリード王立植物園でも学んだ。薬剤師となり、マドリードの病院で働いた。、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡った医師のマルティン・セセーの提案によるメキシコの科学的調査探検のメンバーにマルティネス(José Martínez Longinus)、センセブ(Jaime Senseve)、カスティリョ(Juan del Castillo)とともに選ばれた〔José Luis Maldonado Polo: ''La expedición botánica a Nueva España, 1786-1803: El Jardín Botánico y la Cátedra de Botánica'' . Historia Mexicana, Nr. 001, S. 5-56, 2000〕。1787年の末、メキシコに渡り、セセーとともに計画中の植物園の適地を探した。1788年5月1日にメキシコシティ植物園(Jardín Botánico de la Ciudad de México)は公式に開園し、園長にはセセーが就任した。セルバンテスは植物園で調査探検隊の支援を行うとともに、植物分類学の講義を始め、講義を受けた人物にはホセ・マリアーノ・モシーニョが含まれ、モシーニョは1879年から調査探検隊に加わった。新しい分類法はメキシコの博物学者、アルサテ(José Antonio de Alzate y Ramírez)と論争したが、後に協力関係を築くことになった。アントワーヌ・ラヴォアジエの『化学原論』を翻訳し、紹介もした。
1803年に探検隊が帰国した後もメキシコに残り、1803年に植物園の園長、教授となった。メキシコの病院の薬学の改革にも取り組んだ。約300の新種植物を記載した他、『メキシコの薬用植物試論』("''Ensayo a la Materia Médica Vegetal de México''")、『ヌエバ・エスパーニャの植物』("''Plantae novae Hispaniae''")『メキシコの花』("''Flora Mexicana''")などの著作がある。
メキシコ独立革命の後、1821年にメキシコの独立が決まると、多くのスペイン人は追放されたり、亡命するなどしたがセルバンテスは学問的貢献から、追放を免れ、1829年にメキシコで没した。
ビャクダン科の属名、 & に献名されている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ビセンテ・セルバンテス」の詳細全文を読む



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