|
ビハール・ネパール地震(ビハール・ネパールじしん, )〔国立天文台 編集『理科年表 平成24年版』、丸善、2011年、ISBN 978-4621084380.〕〔宇津徳治 ほか 編集『地震の事典』第2版、朝倉書店、2001年、ISBN 4254160399.〕〔力武常次 監修『近代世界の災害』、国会資料編纂会、1995年、ISBN 4-906474-04-7.〕は、1934年1月15日午後2時13分(現地時間)、インド〔当時イギリス領インド帝国〕との国境に近いネパール〔当時ネパール王国〕東部で発生したマグニチュード8.1の地震である〔Himalayan Earthquakes , 1934 Mw 8.1 Bihar/Nepal earthquake 15 January 1934 - アメリカ合衆国の共同研究機関 Cooperative Institute for Research in Environmental Sciences 内のページ、2013年10月2日閲覧〕。 震源の位置は長らくGutenburg & Richter(1954)の推定により平野部(ヒンドスタン平野)の北端付近と伝えられていたが、後年の調査により正しい震源は従来の約200km北側のヒマラヤ山脈の山腹であることが分かった。堆積盆地であるガンジス川流域で地震動が増幅されたこと、地震計がインド側に偏っていたことが原因であった〔。 == 被害 == インド・ビハール州〔当時イギリス領インド帝国ベンガル州(の一部)〕北部やネパールに甚大な被害をもたらした。死者・行方不明者はDunn et al.(1934)によると約10,500人とされているが、当時ネパールは外国人の入国を禁じる「鎖国」政策を採っていたため、ネパールでの正確な死者は分かっていない。インド側では、Brett(1935)がビハール州での死者を7253人と報告している〔。 ビハール州のKesariaの町にある"Kesariya Stupa"という仏塔は、この地震により35mあったものが崩れて6mになったと伝えられている〔。 カトマンズでは、建造物の半数以上が全半壊し、ダルバール広場の歴史的な建物も倒壊した〔板谷(牛谷) 直子、ジグヤス・ロヒト 「カトマンズの歴史都市における文化遺産の災害脆弱性に関する事例的研究 (文化遺産防災に関わる海外の事例)」 『歴史都市防災論文集』立命館大学歴史都市防災研究センター、2010年7月、p.257〕。カトマンズ盆地における被害について、当時の文献は、建物の倒壊により大量の粉塵が舞い上がり昼間でも薄暗かったこと、狭い道路が避難の障碍になったこと、数千の人々が建物の下敷きとなり死亡したこと、一部で火災が発生したが局所的ですぐに鎮火したこと、などを記録している〔板谷ほか2010、pp.262-263〕。カトマンズ盆地では、建築物の約20%が破壊され、9040人の死者を出した、との統計もある〔 国際協力機構地球環境部防災第二課、2014年〕。 日本〔当時大日本帝国〕国内各方面で義援金が募られ送付された〔「震災と復興 明治・大正・昭和の公文書から」 、国立公文書館アジア歴史資料センター、内の、外務省記録『各国変災並救護関係雑件/印度「ビハール」北部地方震災関係』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビハール・ネパール地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|