|
ビワハヤヒデ(1990年3月10日 - )は日本の競走馬、種牡馬である。 1992年に中央競馬でデビューし、早くから頭角を現す。翌1993年のクラシック三冠路線ではナリタタイシン、ウイニングチケットと共に、それぞれの頭文字から「BNW」と呼ばれたライバル関係を築き、ビワハヤヒデは三冠のうち最終戦の菊花賞を制した。1994年には古馬(5歳以上馬)最強馬として確固とした地位を築き、天皇賞(春)、宝塚記念といったGI競走を制覇。同年、半弟(異父弟)のナリタブライアンがクラシック戦線で圧倒的な強さを見せ、年末の有馬記念での兄弟対決に期待が寄せられたが、秋の天皇賞でビワハヤヒデが故障、引退したことにより実現せず終わった。通算16戦10勝。デビュー以来の15戦連続連対(2着以内)はシンザンに次ぐ中央競馬史上第2位の記録である。1993年度JRA年度代表馬および最優秀4歳牡馬、1994年度同最優秀5歳以上牡馬。 競走馬引退後は種牡馬となったが、中央の重賞勝利馬を出すことはできず、2005年より功労馬として余生を送っている。 ''※以下、競走馬引退までの馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で記述する。'' == 経歴 == === 生い立ち === 母パシフィカスは1990年にイギリス・ニューマーケットで開催されたセリ市で、日本から参加していた早田光一郎に落札された〔『優駿』2002年11月号、p.59〕。当時無名の種牡馬シャルードの仔を受胎した状態で、日本への移動後は早田が経営する早田牧場新冠支場へ運ばれ、出産を迎える予定だった。しかし当時はバブル景気の好況で欧米から続々と繁殖馬が輸入されていたため、検疫許可が大きくずれ込み、成田空港到着時には出産予定日が間近に迫っていた〔『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.4〕。パシフィカスは急遽福島県の早田牧場本場に運ばれ、3月10日、イギリスからの持込馬として後のビワハヤヒデを出産。こうした経緯からビワハヤヒデは戦後の競走馬としては数少ない福島県産馬となった〔他の著名な福島県産馬には1974年に牝馬二冠を制したトウコウエルザなどがいる。〕。 生後1カ月の頃、馬選びの代理人業を行っていた日西牧場社長・高山裕基に見初められ、高山が勧めた馬主の中島勇に購買された〔『忘れられない名馬100』pp.176-177〕。同年秋に中島から馬の検分を求められた後の管理調教師・浜田光正は、当時の印象について「まだ身体ができてない感じだった。体型的にも頭が大きくて、脚も太かった。規格から外れた感じだよね。ただ血統が良かったから。肌にノーザンダンサー〔肌=繁殖牝馬。この場合は母の父(パシフィカスの父)がノーザンダンサーという意味。〕というのはなかなかいない。だからビワハヤヒデの体型的なものは、それほど気にしなかった」と語っている〔『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.88〕。2歳秋に牧場の牧柵に激突し、右前肢ヒザ下の管骨付近の皮を10cmほど木でえぐる事故を起こす。幸いにも傷が中筋には到達しておらず大事には至らなかったが、わずかでも事故の箇所がずれて腱を損傷していたら競走生命を絶たれていたほどの怪我であり、傷痕は後々まで残った。 競走年齢の3歳に達した1992年4月1日、滋賀県栗東トレーニングセンターの浜田厩舎に入る。競走名は中島が使用する冠名「ビワ」に、「速さに秀でる」との願いを込めた「ビワハヤヒデ」とされた〔『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.11〕(「ハヤ」は早田牧場の「早」ともされる〔)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビワハヤヒデ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|