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ピアーヴェ川の戦いとは、第一次世界大戦中にオーストリア=ハンガリー帝国とイタリア王国の間で発生した戦いで、第二次ピアーヴェ川の戦い(カポレットの最終戦がピアーヴェの防戦であった為)とも呼ばれる。カポレットの戦いでドイツ帝国軍の助力で勝利を得たオーストリアは単独で攻勢に転じたが、事前に攻勢を察知していたイタリア軍側の反撃で撃退された。 オーストリアが攻勢に失敗した事で中央同盟側がイタリア戦線を勝利で終える事は不可能となり、敗色濃厚となっていた同盟軍を更に苦しい状況に追い込んだ。 == 戦闘前 == 1917年のロシア革命で東部戦線が同盟軍の勝利に終わると、オーストリア軍は全力をイタリア戦線に注ぐ事が出来る様になり、加えて余裕が生まれたドイツ軍からも精鋭の増援部隊を派遣してもらっていた。カポレットの勝利はドイツ軍から派遣された司令官と少数精鋭の突撃師団による浸透戦術と、イタリア軍司令官ルイージ・カドルナ大将の失策によって齎された。イタリア陸軍はそれまでの占領地を失い、30万名の戦力も失ってヴェネト地方へと後退を強いられた。 無能なルイージ・カドルナ大将は解任され、代わって軍司令官の一人だったアルマンド・ディアズ大将が参謀長に抜擢された。ディアズ将軍はヴェネト州西部のピアーヴェ川で独墺軍の攻勢に踏み留まり、同地に川沿いの強固な防衛線を形成した(第一次ピアーヴェ川の戦い)。また政府内でも政権が責任を取って辞任、新たな首相に選出されたヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドはロンドン条約を活用して援軍を要請、連合軍側もイタリア戦線に援軍を送り込んだ。しかし大部分のフランス軍とイギリス軍は1918年3月の春季攻勢に備えて撤退してしまい、僅かな戦力(全軍の数%)しか増援としては残らず、結局は殆ど独力で独墺軍に対処せねばならなかった。 オーストリア側では上級大将が参謀長になったが、彼は早期にイタリア戦線を自らの手で終わらせる事を望んだ。軍司令官に格下げされたフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ前参謀長とスヴェトザル・ボロイェヴィッチ将軍も攻撃に賛同したが、攻撃場所に関してはピアーヴェ川に沿って攻撃を継続する(ボロイェヴィッチ)か、別の箇所から攻撃する(コンラート)かで意見が二つに分かれた。ボロイェヴィッチとコンラートが犬猿の中であった事も対立に拍車を掛け、シュトラウセンブルク参謀長は二人の将軍に曖昧な仲裁を繰り返した。結果、オーストリアの攻勢は二箇所から戦力を二分して行われる事になった。 ドイツ軍側は攻撃の開始を求め、1918年2月にボルツァーノで作戦が正式に決定された。ドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフ将軍は西部戦線で日に日に増加しているアメリカ軍師団がイタリア戦線の火消しに回る事を望んでいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピアーヴェ川の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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