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ピエトロ・ヴィエルコウッド(Pietro Vierchowod, 1959年4月6日 - )は、イタリア・カルチナーテ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック)。 == 選手経歴 == ウクライナ出身の軍人の父親を持つ。父親は第二次世界大戦の際にドイツ軍の捕虜となりイタリアへと移送されたが戦後もイタリアに留まって生活を送った〔。ヴィエルコウッドは少年時代は配管工を務めながらサッカーを学んでいた〔。当時は持ち前の俊足を生かし右ウイングのポジションを務めていたが多くの結果を残すことは出来ず、ディフェンダーに転向することになった〔。 から1976年にカルチョ・コモへ移籍すると高い身体能力を備えたセンターバックとして活躍し、1981年にUCサンプドリアへ移籍すると出場機会を求めてフィオレンティーナやASローマへ期限付き移籍をしてプレーをした〔。ローマではファルカンやブルーノ・コンティらとともに1982-83シーズンのスクデット獲得に貢献した〔。 1983年にサンプドリアで出場機会を得ると12シーズンにわたって在籍するなど選手時代の大半を過ごし、ヴヤディン・ボシュコヴ監督の下でジャンルカ・ヴィアリやロベルト・マンチーニらとともに1990-91シーズンのセリエA初優勝、1989-90シーズンのUEFAカップ初優勝、1991-92シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準優勝などに貢献した〔。サンプドリアでプレーを続けた理由についてヴィエルコウッドは会長のに「7位や8位に留まるクラブなら私は興味ない、私はこのチームでUEFAチャンピオンズカップでプレーしたいのだ」と応えたところ会長もそれに応じて強化を進めたためだという〔。またヴィエルコウッドに対して1990年にACミランから獲得のオファーが届いた際にはマントヴァーニ会長やチームメイトに全てを話し残留をするなど、チーム内は友好的関係にあったという〔。 イタリア代表としては1981年1月16日に行われたオランダとの国際親善試合でデビューした〔。1982 FIFAワールドカップの代表メンバーにも選ばれ最終的にイタリアが優勝を成し遂げたが試合出場はならなかった〔。この大会後に代表に定着し1986 FIFAワールドカップでは全4試合に出場。その後は代表メンバーから遠ざかっていたが地元開催となった1990 FIFAワールドカップの直前に復帰を果たし3試合に出場した〔。1993年5月1日に行われた1994 FIFAワールドカップ・予選のスイス戦で代表から退くまでに国際Aマッチ45試合に出場し2得点を記録した〔。 サンプドリアのマントヴァーニ会長が1993年に亡くなると、2年後の1995年にユヴェントスFCへ移籍し〔1995-96シーズンにUEFAチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。ACミランやピアチェンツァといったクラブを渡り歩き40歳を超えた後も現役を続けた。2000年にセリエA通算562試合出場(歴代4位)の記録を残し41歳で現役引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエトロ・ヴィエルコウッド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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