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ピッツバーグ()は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州南西部に位置する都市。アリゲニー台地上、アレゲニー川とモノンガヒラ川が合流し、オハイオ川の起点となっている地点を中心に広がっている。ダウンタウンはその合流点近く、アレゲニー川とモノンガヘヒラ川に挟まれた地帯に広がり、ゴールデン・トライアングル(''Golden Triangle'')と呼ばれている。市域人口は305,704人(2010年国勢調査)。アレゲニー郡を中心に7郡にまたがる都市圏は2,356,285人(2010年国勢調査)の人口を抱えている〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.〕。 ピッツバーグという地名は、フレンチ・インディアン戦争の際にこの地に建てられていたフランス軍のデュケイン砦に進攻し、フランス軍を撤退に追い込んだイギリス軍のジョン・フォーブズ将軍が、ウィリアム・ピット(大ピット)にちなんで1758年につけたものであった。フォーブスがスコットランド人であったことから、この地名の''burgh''という部分はエディンバラと同様に、「バラ」と発音されることを意図したものであったと考えられている〔How to Spell Pittsburgh . Carnegie Library of Pittsburgh.〕。ピッツバーグは1794年に正式な町となり、1816年に市制を施行した〔Pittsburgh Facts . ''Pittsburgh Post-Gazette''.〕。 地元のNFLチーム「スティーラーズ」の名にも見られるように、かつては鉄鋼生産の中心地として栄えた。しかし1980年代中盤に安価な輸入鉄鋼に押される形で地域の鉄鋼業が衰退し、地域経済が大きな打撃を受けると、その後はハイテク産業をはじめ、保健、教育、金融を中心とした産業構造に転換し、地域経済を再生させた。その経験は2007年に始まったサブプライムローン問題や世界金融危機でも生きた。全米のみならず全世界を巻き込んだこの経済危機の最中にあっても、ピッツバーグの住宅市場は比較的安定し、2008年に入ってもピッツバーグにおける求人は増加していた〔Napsha, Joe. Growth of jobs locally bucks nationwide trend . ''Pittsburgh Tribune-Review''. 2008年8月2日.〕。こうした再生の成功は、バラク・オバマが2009年9月に開催された第3回20か国・地域首脳会合の開催地としてピッツバーグを選んだ要素となった〔US to host next G20 world meeting . BBC. 2009年5月28日.〕〔Blazina, Ed and Rich Lord. City to host global leaders for G-20 summit in September . ''Pittsburgh Post-Gazette''. 2009年5月29日.〕。 また、ピッツバーグは、カーネギーメロン大学、デュケイン大学、ピッツバーグ大学など、多数の大学が市内および都市圏内にキャンパスを置く、学術都市としての要素も持っている。特にカーネギーメロン大学とピッツバーグ大学がキャンパスを置いている、ダウンタウンの東に広がるオークランド地区は、高等教育・研究機関や文化施設が集中する、市の文教地区となっている。 ==歴史== ===初期=== 1669年、フランス人探検家ロベルト・デ・ラ・サールは、ケベックからオンタリオ湖を上り、オハイオ川を下る探検の最中に、ヨーロッパ人としては初めてこの地に足を踏み入れた〔Riverfacts: Historical - General History . Friends of the Riverfront.〕。1717年、ヨーロッパ人商人はオハイオ川、アルゲイニー川、モノンガヘイラ川の流域に交易所と入植地を建設し、ピッツバーグの歴史が始まった〔。 1749年、ケベックに駐留していたフランス軍はカナダの植民地とフランス領ルイジアナとを川で結ぶことを狙って、アレゲニー川を下り、モノンガヒラ川との合流点にあたるこの地に進軍した〔。バージニア植民地総督を務めていたイギリス人、ロバート・ディンウィドルは、フランス軍がこの地から撤退するように警告するため、ジョージ・ワシントン少佐をこの地に派遣した。1753年から翌1754年にかけて、イギリスはこの地にプリンス・ジョージ砦を突貫で建てたが、フランス軍はこの砦に進攻してイギリス人を撤退させ、その跡地にデュケイン砦を建てた。やがてフランスは1669年のラ・サールによるこの地の発見を引き合いに出して、オハイオ川流域の支配権を主張すると、その支配権をめぐってイギリスとフランスとの間でフレンチ・インディアン戦争が勃発した。エドワード・ブラドック将軍による1度目のデュケイン砦進攻(モノンガヘイラの戦い)は失敗に終わったが、1758年に行われたジョン・フォーブズ将軍による2度目の進攻は成功し、フランス軍をデュケイン砦から撤退させ、砦を破壊させた。その後、フォーブズはこの地にウィリアム・ピットにちなんでピット砦を建てることを命じ、この入植地を''Pittsborough''と名付けた〔Lorant, Stefan. ''Pittsburgh, The Story of an American City''. 5th Ed. Esselmont Books, LLC. 1999年. ISBN 0685920127.〕。この''Pittsborough''という地名は、その後1794年に''Pittsburgh''に縮められた〔How to Spell Pittsburgh . Carnegie Library of Pittsburgh.〕。 1763年に勃発したポンティアック戦争の最中、ピット砦はオハイオ川流域や五大湖周辺のネイティブ・アメリカンの部族によって2ヶ月間にわたって包囲された。ヘンリー・ブーケット大佐はブッシーランの戦いでネイティブ・アメリカン軍を破り、ピット砦を開放した。1768年にはスタンウィックス砦条約が締結され、イロコイ連邦の領土がアメリカ合衆国に割譲され、現在のピッツバーグ市域のうち、ノース・サイドを除く地域がペンシルベニアに編入された。1784年には2度目のスタンウィックス砦条約が締結され、現在のノース・サイドを含む、オハイオ川以北の地域、およびアルゲイニー川流域もペンシルベニアに編入された。一方、この地は植民地時代から、バージニアとの間で州境線をめぐって係争になっていたが、1780年に両州の合意により、メイソン・ディクソン線を西方へ延長することで決着した。ピッツバーグは1785年にペンシルベニア州の所有となった。その後1794年にはピッツバーグが正式にペンシルベニア州の郡区となり〔''Pittsburgh First, the Official Organ of The Chamber of Commerce of Pittsburgh''. Chamber of Commerce of Pittsburgh. 1921年.〕、1816年には市に昇格した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピッツバーグ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pittsburgh 」があります。 スポンサード リンク
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