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ピル治験女性バラバラ殺人事件は、1986年、ピルの治験ツアーに参加した日本人女性が殺害された事件である。 結局、捜査機関の努力も実らず捜査は難航し、2016年現在も犯人特定・犯人逮捕には至っておらず、未解決事件となっている。 == 事件の経過 == 1986年10月31日、デンマークのコペンハーゲン港で昼食を取っていたタクシーの運転手が、海面に漂う人間の上半身の遺体の一部を発見した。デンマーク警察はフロッグマンも投入し、港とその周辺の海中を徹底して捜索、11月7日までに約1.5km離れた海底から頭部や足の部分も発見した。デンマーク警察がアジア系と見られる遺体の歯形や血液型などの特徴をICPOを通じて各国に手配すると、翌年6月に日本の警察庁が遺体とよく似た特徴を持った女性を見出した。現地から取り寄せた指紋をその女性のものと照合した結果一致したために、急遽日本警察も捜査に協力することになったのである。女性は当時、東京都葛飾区東新小岩に居住していた22歳の無職女性で、海外のピル治験ツアーに参加して事件に巻き込まれた〔 読売新聞 1987年7月3日〕。 被害者の参加したピル治験ツアーとは、西ドイツ(当時)のフライブルクに本社を置く、製薬会社による治験の代行を業務とする臨床薬理試験の受託会社が、東京に設立した子会社を通じて大阪の旅行会社と提携、国内でピルを販売するための治験データを集めるために募集したものであった。参加者は被害者を含めた22歳から30歳までの女性5名で、内容は同社が開発したピルの新薬を服用し、血中のホルモン分泌状態を検査するなどしてデータを収集することにあった。事前の説明会では治験に関する詳しい説明を施して、治験によって何らかの問題が起きた際の同意書も取り付けていたという。拘束期間は約4ヶ月にも及ぶが、その間の渡航費は会社が受け持ち、さらに手当として1日約1万円が支給され、なおかつ現地のドイツ語学校で学習の機会を得る特典も伴っていた〔 読売新聞 1987年7月4日〕〔戦後医療史 治験ツアー 〕。 一行は1986年5月20日に成田空港を出発して、6月9日から9月12日までフライブルク市内にあるホテルに滞在しながら治験要員として過ごした〔。治験終了後、他の4名の女性は被害者と別れてヨーロッパ各地を旅して回り、10月に帰国している〔スポーツニッポン 1987年7月4日〕。一方、被害者は9月17日にイタリアへ入国してローマやヴェネツィア、26日にアムステルダム、27日にコペンハーゲン、29日にストックホルム、30日にオスロ、10月3日に再びストックホルムとヨーロッパ各地を旅して回った。10月4日にヘルシンキに入り、そこで「これからコペンハーゲン経由で南ヨーロッパに旅行する」と実家に手紙を送ったのを最後に足取りが途絶えた〔。 なお、被害者は都立高校を卒業後に千葉市内の短大に入学するも、1983年6月に中退した。その後は家族とともに生活しながら、人材派遣会社の斡旋でセールスのアルバイトなどに携わっていた〔 毎日新聞 1987年7月3日 夕刊〕。また、このピル治験ツアーに参加する前の1985年12月から1986年1月まで、単独で韓国を旅行していた。帰国後も家出同然で関西方面を周遊しており、このツアーに参加することも西ドイツへの出発直前、成田空港へ向かうバスの中で、実家に手紙を書いて知らせただけだった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピル治験女性バラバラ殺人事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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