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ピータールーの虐殺(ピータールーのぎゃくさつ、The Peterloo Massacre)は1819年8月16日にイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールド(St. Peter's Field)で発生した事件である。広場で選挙法改正を求めて集会を開いていた群衆に騎兵隊が突入して鎮圧を図り、多数の死傷者が出る惨事となった。 1815年にナポレオン戦争が終結したことでイングランドは記録的な高失業と、夏のない年による飢餓の時代を迎え、穀物法の制定がそれに拍車をかけた。1819年初頭までに劣悪な経済状況が生んだ社会の窮状は、北部イングランドにおける選挙権の欠如の問題と結びついて、民衆が政治的急進主義に傾く動きを強めていた。これに呼応して、議会改革要求を盛んに世に訴えていたマンチェスター愛国連合は著名な急進派の弁士であるヘンリー・ハント率いる大衆集会を決行した。 集会が始まってまもなく、地元の治安判事たちは軍当局にハントや演壇にいた人物たちを逮捕することと群衆を追い散らすことを命じた。騎兵隊はサーベルを抜いた状態で群衆に突撃し、続く混乱の中で15人が死亡し400から700人もの人々が負傷した。この「虐殺」は4年前に起きたワーテルローの戦い(ウォータールーの戦い)と皮肉な対比を成すものとして広場の名前から「ピータールー」と名付けられることになる。 歴史家のロバート・プールはピータールーの虐殺を当時の決定的な瞬間の一つであると考えた。同時代にロンドンの新聞や全国紙ではマンチェスター地方の恐怖が広く報じられたが、より直接的な影響のひとつは政府が六法(治安六法)として知られる弾圧立法を制定して改革の動きを押さえ込んだことであり、また今日のガーディアン紙の起源であるマンチェスター・ガーディアンが創刊されるきっかけともなった。しかし一方でその後の議会改革の進展にはほとんど影響を与えなかった。2006年にガーディアンによって行われた調査では、ピータールーはイングランド内戦中のパトニー討論に次いで記憶に値するイギリス史上の出来事とみなされた。現在、事件は現場近くの銘板によって記念されている。 == 背景 == === 選挙権 === 1819年にランカシャーからは2名の庶民院議員が選出されていた。投票権は40シリング以上の価値がある自由保有権所有者の男性に限られており、州都のランカスターにおいてしか投票できなかったうえ、秘密投票ではなく演説台で投票先を公に宣言する形式だった。また選挙区の境界は時代遅れで、いわゆる「腐敗選挙区」は人口規模に比してイギリス議会の議員資格に極めて不均衡な影響を与えていた。例えばウィルトシャーのオールド・セーラムは有権者1人に対して2名の議員を選出していた〔Reid (1989), p. 28.〕。一方でサフォーク州ダンウィッチも同様で町自体は19世紀初頭までほとんど海中に没していた。マンチェスター、サルフォード、ボルトン、ブラックバーン、ロッチデール、アシュトン・アンダー・ライン、オールダムといった主要な都市部は人口が総計100万に達していたにも関わらず、ランカシャー全体として2名の議員によって代表されていたに過ぎなかった。当時の庶民院議員の半数以上が総計154名の有権者によって選出されており、代表権の著しい不均衡が議会改革の要求を呼び起こしていた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピータールーの虐殺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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