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ピーター・アレクシス・ブドバーグ(Peter Alexis Boodberg、1903年4月8日 – 1972年6月29日)は、ロシア生まれのアメリカ合衆国の言語学者、中国学者。ロシアでの名前はピョートル・アレクセイェヴィチ・ブドベルク ()。中国名は「卜弼得」()。 ブドバーグはカリフォルニア大学バークレー校に40年間にわたって教えた。20世紀における漢字、中国文献学、中国語歴史音韻論の研究の発展に影響を及ぼした。 == 生涯 == ピーター・アレクシス・ブドバーグはロシア帝国時代の1903年4月8日にウラジオストクで生まれた。ロシアでの名前はピョートル・アレクセイェヴィチ・ブドベルクであった。ブドベルク家はバルト・ドイツ人の家系で、13世紀にマインツから移住してエストニアに住んでいた。1721年にロシアがエストニアを併合した後、ブドベルク家はロシア帝国の外交・軍事関連の名家になった。ブドバーグの父アレクセイ・パヴロヴィチ・ブドベルク(ロシア語版)は貴族で、ウラジオストクにあるロシア軍司令官であった。父が高官であったため、ブドバーグはラテン語とギリシア語古典および主要なヨーロッパ諸言語に関する高い教育を享受できた。ブドバーグはサンクトペテルブルクの士官学校生徒であったが、第一次世界大戦がおきると安全を心配した両親はブドバーグとその兄弟を満州のハルビンへ送った。ブドバーグはウラジオストクにある東洋学院(現在の極東連邦大学)に通い、そこでハルビン時代に覚えた中国語を研究し、また他のアジア諸言語を学習した。 十月革命で貴族が迫害されることを恐れて、1920年にブドバーグ一家はロシアを離れ、米国に移住し、サンフランシスコに住んだ。ブドバーグはカリフォルニア大学バークレー校に入学し、1924年に東洋語学の学位を取得した。その後もバークレーの大学院で研究をつづけ、1930年に「 (古代中国の兵法:李衛公問対による研究)」で東洋語学の博士号を取得した。 1932年にブドバーグはバークレーの東洋語学部の講師の職を得た。1937年に準教授、1940年に学部主任になり、1948年に正教授に昇任した。1938・1956・1963年にグッゲンハイム奨励金を得た。1963年にはアメリカ東洋学会の会長に就任した。1972年に心臓発作で死亡するまで現職の教授であった。ブドバーグは何世代にもわたって中国学者に影響を及ぼしたが、中でもエドワード・シェーファーは に長文の追悼文を書いている(その後ろにアルヴィン・P・コーエンによる完全な著作一覧が置かれている)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピーター・A・ブドバーグ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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