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ピーター・レリー(、1618年9月14日 - 1680年11月30日)は17世紀に活動した画家。キャリアのほとんどをイングランドで送り、イングランドの主席宮廷画家として重きを成した。 == 経歴 == レリーはオランダ人の両親の間に、ザクセン公国のヴェストファーレン、ゾーストで生まれた。本名はピーテル・ファン・デル・ファースで〔Ellis Waterhouse, ''Painting in Britain, 1530-1790'', 1953, Penguin Books (now Yale History of Art series)〕、父親はザクセン選帝侯軍の将校だった。ハールレムで絵画を学び、おそらくオランダ人画家ピーテル・フランツ・デ・グレベル (:en:Pieter de Grebber) のもとで修行したと考えられている。修行を終えたレリーは1637年にハールレムの芸術家ギルドである聖ルカ組合に画家として登録された。現在知られている「レリー ''Lely'' (Lilly)」という姓は、デン・ハーグ生まれのレリーの父親の自宅外壁にユリ (Lily) の紋章が描かれていたことにちなんでいる。 レリーがロンドンに渡ったのは1641年ごろのことで、1641年の12月にはイングランドの宮廷画家だったアンソニー・ヴァン・ダイクが死去している。レリーがイングランドで描いた初期の絵画は神話画、宗教画、そして田園風景を背景にした肖像画で、ヴァン・ダイクとバロック様式の影響が見られる作品になっている。レリーの肖像画は広く受け入れられ、イングランドでヴァン・ダイクを受け継ぐ最先端の肖像画家という評判を勝ち得た。1647年にはロンドンの画家名誉組合 (:en:Worshipful Company of Painter-Stainers) の一員となり、イングランド王チャールズ1世の肖像画家となっている。チャールズ1世がイングランド内戦で処刑されたあともレリーの画家としての才能は認められ、イングランドを支配した護国卿オリバー・クロムウェルとその息子リチャード・クロムウェルに雇われて、「ありのままの肖像画 (''warts and all'' 〔直訳すれば「イボもすべて」であり、オリバー・クロムウェルが肖像画を描かせる際に、画家に対して自身の顔にあったイボも含めてありのままに描くように要求した言葉とされている〕) を描いた。1650年ごろに王党派詩人リチャード・ラヴレース (:en:Richard Lovelace) がレリーを2編の詩に書いている。 1660年に王制が復活し (:en:English Restoration)、レリーは1661年にイングランド王チャールズ2世から、200ポンドの年金と主席宮廷画家 (:en:Principal Painter in Ordinary) の地位とを授与された。これは前任の主席宮廷画家だったアンソニー・ヴァン・ダイクが受けていた待遇と同じものである。その後レリーは1662年にイングランドに帰化した。 レリーは1680年にナイト勲爵士となり「サー」の称号を許されたが、その後間もなく死去した。コヴェント・ガーデンでサマセット公爵夫人の肖像画を描くためにイーゼルに向かっている最中のことで、コヴェント・ガーデンのセント・ポール教会に埋葬された。レリーが生前にコレクションしていた、ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、クロード・ロラン、ルーベンスらオールド・マスターの作品と素晴らしいドローイングのコレクションは、レリーの死後ばらばらに売却され、総額26,000ポンドという莫大な値段がついた。レリーの収集したコレクションのなかには彫刻『レリーのヴィーナス (:en:Lely Venus)』のように、もともとチャールズ1世のコレクションから散逸した作品も含まれていたが、これらは王室が再購入してロイヤル・コレクションに収められている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピーター・レリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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