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ピードモントの戦い(ピードモントのたたかい、)は、南北戦争中の1864年6月5日、バージニア州オーガスタ郡ピードモント村で、デイビッド・ハンター少将の指揮する北軍と、ウィリアム・E・"グランブル"・ジョーンズ准将の南軍が対戦した戦闘である。激戦が行われた後で、ジョーンズが戦死し、南軍が潰走した。ハンターは6月6日にスタントンを占領し、間もなくリンチバーグへの進軍を始め、その途中で軍事物資や公共資産を破壊した。 == 背景 == ピードモントの戦いは、北軍ユリシーズ・グラント中将が1864年に主導権を取って攻勢を続け、南軍を地域から地域に行ったり来たりさせないようにさせた動きの中から生じた。シェナンドー渓谷では、グラントは当初ドイツ生まれの将軍フランツ・シーゲルを指揮官に据えたが、5月15日のニューマーケットの戦いでシーゲルが敗北した後の5月21日、シーゲルをシェナンドー軍指揮官から解任して、後任にデイビッド・ハンター少将を据えた〔Patchan, pp. xi-xii.〕。 ハンターはその小さな軍を再編し、シェナンドー渓谷の豊かな農場で食糧を自足していくように命じた。渓谷をスタントンに向けて進軍し、5月26日には南軍の軽い抵抗にあった。ニューマーケットの後、渓谷にいる南軍の大半は北バージニア軍に加わったので、ハンターに対抗するのはジョン・D・インボーデン准将の旅団とバレー予備隊のみとなっていた。インボーデンはロバート・E・リー将軍にハンター軍の動きについて情報を入れ続けたが、その貧弱な軍隊ではハンター軍の動きを鈍らせることはほとんどできなかった。ハンターは南軍にとって重要な鉄道と兵站の中心地であるスタントンを視野に置いていた〔Patchan, pp. 30-31, 50-51.〕。 北軍がニューマーケットでの敗北に続いて素早く進軍したことで、南軍は油断していた。リーは北軍のポトマック軍との戦闘を密に続けながら、南西バージニアおよび東テネシー方面軍指揮官代行のウィリアム・E・"グランブル"・ジョーンズ准将をシェナンドー渓谷支援に振り向け、インボーデンと連絡を密に行うよう指示した。ジョーンズは間もなく、歩兵と下馬した騎兵約4,000名と共にシェナンドー渓谷に向かった。 6月3日までに、北軍はハリソンバーグに到着していた。インボーデンはその部隊をノース川の南岸にあるマウントクロウフォードに集結させ、ハンター軍がバレー・ターンパイクを真っ直ぐスタントンに進むのを妨害した。インボーデンはオーガスタ郡すなわち土地の出身者であり、その作戦本部をグラッテンの家に設定した。そこに南西バージニアから援軍が到着するようになって、勢力が増した。6月4日朝、ハンターはマウントクロウフォードの方向に陽動部隊を派遣し、その主力は東のポートレパブリックに行って、その夜はそこで宿営した〔Patchan, pp. 60-64.〕。 ジョーンズ将軍がグラッテンの家に到着し、急ごしらえされた南軍バレー地区軍の指揮官に就任した。南軍の斥候がハンターの側面への動きについて報告したとき、インボーデンがオーガスタ東のモウリーズヒルに移動してハンター軍と向き合うことを提案した。インボーデンに拠れば、ジョーンズはその歩兵と下馬騎兵の部隊をモウリーズヒルに移動させることに同意し、6月5日にハンター軍と対峙することになった。ジョーンズはインボーデンに騎兵を全て率いて、スタントン道路別名イースト道路をポートレパブリックの南数マイルのマウントメリディアンに進むよう命令した。ジョーンズはインボーデンがハンター軍の進軍を遅らせるよう付け加えたが、翌朝北軍が接近したときに本格的な交戦を避けるようにも指示していた〔Patchan, pp. 65-66; Imboden, ''The Battle of Piedmont'' 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピードモントの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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