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ファウズィーヤ・ビント・フアード(;;ラテン文字転写:Fawzia bint Fuad, 1921年11月5日 ラス・アル・ティン宮殿 - 2013年7月2日 アレクサンドリア)は、エジプト王フアード1世の娘で、ファールーク1世の妹。最後のイラン王(のち皇帝)モハンマド・レザーの最初の妻となった。称号は王妃(Malika)〔モハンマド・レザーの3人の妃のうち、皇后に相当するシャフバーヌー(Shahbanu)を名乗ったのは、モハンマドが1967年に皇帝(シャーハンシャー)として戴冠した時に同時に戴冠した3人目の妻ファラフ・ディーバーだけである。〕。 フアード1世とその2番目の妃ナーズリー・サブリーの間の第2子、長女として生まれた(父王にとっては第4子、次女)。1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)において、イラン王太子モハンマド・レザーと結婚した。夫妻はイラン帰国後もテヘランで2度目の結婚披露宴を行った。結婚の翌年に長女シャフナーズ(1940年 - )を出産し、翌1941年に夫が王位に就くのに伴い、王妃となった。 しかし結婚生活は不幸で、1945年にエジプトに帰国した際に離婚の意志を表明した。モハンマド・レザーはシャフナーズ王女をイランで育てることを条件に離婚を承諾し、1948年11月17日に正式に離婚が成立した。離婚に関する公式声明では、原因はイランの気候が王妃の健康を損なったためとされ、またこの離婚がエジプトとイランの間の友好関係に影響することは無いとされた〔"2 Moslem Rulers let the man and wife divorce if they need to ", The New York Times, 20 November 1948, page 1.〕。1949年3月28日にカイロにおいて、エジプト陸軍・海軍大臣などを務めたイスマーイール・シーリーン将軍(1919年 - 1994年)と再婚し、ナディア(1950年 - 2009年)とフサイン(1955年 - )の1男1女をもうけた。前夫モハンマドも1951年にイラン人貴族の娘ソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリーと再婚した。 ファウズィーヤは王妃となって間もなく、写真誌『ライフ』の1942年9月21日号のカバーを飾った〔Life Magazine in United States(21 September 1942) - whosdatedwho.com 〕。撮影を担当したセシル・ビートンは、彼女の美しさを「心を奪われる完璧な容貌、奇妙に淡いが鋭さのある碧眼をもつ、アジアの美神(“''Asian Venus... a perfect heart-shaped face and strangely pale but piercing blue eyes.''”)」と形容した。 == 脚注 == |Mohamad Reza Pahlavi & Queen Fuzeye. |Mohamad Reza Pahlavi & Queen Fuzeye. |Mohamad Reza Pahlavi & Queen Fuzeye. | Queen Fuzeye. |Queen Fuzeye and shahnaz pahlavi. |Mohammad Reza Pahlavi and Queen Fawzia |Mohammad Reza Pahlavi and Queen Fawzia | Queen Fawzia 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファウズィーヤ・ビント・フアード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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