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ファニー・ブロック・ワークマン : ウィキペディア日本語版
ファニー・ブロック・ワークマン

ファニー・ブロック・ワークマン(、1859年1月8日 - 1925年1月22日、以下ではファニーと記す)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州出身の地理学者地図制作者探検家旅行記作家登山家であり、特にヒマラヤ山脈での実績が名高い。女性では初の職業登山家であり、探検しただけでなく、その冒険について記録も残した。女性が昇った‎最高点到達記録を何度か更新し、夫と共に8冊の著作を著した。また女性の権利と参政権の運動家でもあった。
ファニーは裕福な家庭に生まれ、当時女性が入学できた中でも最上級の学校で教育を受け、ヨーロッパを旅した。ウィリアム・ハンター・ワークマンと結婚したことでこれら利点をさらに固めることができ、ニューハンプシャー州で登山の世界に入った後は、夫と共に世界を旅した。ワークマン夫妻はその富とヨーロッパ、北アフリカアジアを巡る旅との結びつきを利用することができた。夫妻には2人の子供ができたが、ファニーは母親で収まるタイプではなかった。子供を学校と子守に預けて、自身はいかなる男性にも匹敵できる「新しい女」だと考えた。夫妻は自転車でスイスの旅を始め、フランスイタリアスペインアルジェリアインドにまで行った。自転車で数千マイルを旅し、雨風を凌げるところがあればそこで寝た。夫妻はそれぞれの旅行について本を著し、ファニーは出逢った女性の生活状態について触れることが多かった。初期に出した自転車旅行の本は後期の登山の本よりも大衆に受け入れられた。
ワークマン夫妻はインドでの自転車旅行を終えた後、夏の暑さをヒマラヤ山脈に避け、そこで登山の世界に取り込まれた。その後の14年間で、当時はまだ探検されていなかったこの地域を8度訪れることになった。近代的な登山装備を持っていなかったが、幾つかの氷河を探検し、幾つかの山に登った。当時の女性が踏んだ最高点である23,000フィート (7,000 m) にまで達した。複数年にわたる遠征隊を組織したが、土地の労働者と良い関係を維持するために苦闘した。アメリカの権威と富を持った地位から来て、土地の労働者の地位を理解できず、信頼できるポーターを見つけたり交渉したりするのが難しかった。
ワークマン夫妻はヒマラヤ山脈に行った後はその旅について講演を行った。学識有る社会に招かれた。ファニーはソルボンヌ大学で講演を行った最初の女性となり、王立地理学会では2人目の女性になった。ヨーロッパの登山や地理の学界から多くの名誉メダルを受章し、当時として最先端を行く登山家の一人として認められた。ファニーは、女性が男性と同じ高さまで昇れることを示し、登山の世界における男女の壁を破った。
== 生い立ち ==

ファニー・ブロックは1859年1月8日にマサチューセッツ州ウースターで、ピルグリム・ファーザーズの子孫である裕福で貴族的な家庭に生まれた。3人兄弟の末っ子だった。母はエルビラ・ハザード、父はアレクサンダー・H・ブロックであり、実業家、共和党員のマサチューセッツ州知事を務めた者だった。ファニーはまず母から教育を受けた後で、ニューヨーク市にあったミス・グラハムのフィニシング・スクールで学び、その後はパリ、さらにドレスデンで時を過ごした。トマス・ポーリーはファニーに関する短い伝記で「ファニーの初期はその特権意識に束縛されることでイライラしていた」と書いている。当時の彼女の作った少数の話が残っており、冒険に関する彼女の興味を物語っている。その中の1つは「休暇中の話」であり、彼女は社会を軽蔑する美しく貴族的なイングランドの少女を物語っている。彼女はグリンデルヴァルトに逃げ出し、そこで優秀なアルピニストになり、あるアメリカ人と結婚する。この話はファニー自身の生活を要約しており、山々への愛情である旅行熱や、女性の権利への関わりが入っている。1886年、ファニーは「ニューヨーク・マガジン」に短編小説を掲載し、時代設定はフィリップ王戦争(1675年)で「白人少女が捕まり脱出すること」を描いた。この話の書評は「大変楽しく夢中にさせるようなスタイルで語られ」ていると述べていた。
1879年、ファニーはアメリカ合衆国に戻り、1882年6月16日に12歳年上のウィリアム・ハンター・ワークマンと結婚した。ウィリアムも裕福な貴族で、教養ある家庭の出であり、イェール大学を卒業し、ハーバード大学で医師としての訓練を受けていた。1883年または1884年〔、娘のラチェルが生まれた。
結婚後にウィリアムがファニーに登山を教え、ニューハンプシャー州ホワイト山地で夏の多くの時間を過ごし、ワシントン山(標高6,293フィート、1918 m)には数回登った。アメリカ合衆国北東部で登山することで、他の女性とともにその能力を開発できることになった。ヨーロッパのクラブとは異なり、ホワイト山地のアメリカ人の登山クラブは女性もメンバーになれ、女性に登山を奨励していた。彼らは家庭内でも運動競技でもアメリカの女性の新しい形を奨励しており、ファニーはこのイメージを熱狂さをもって迎えた。1886年までに、ニューイングランドで女性はハイキングの遠征のときに男性の数を上回ることがあるようになっていた〔''Appalachia, The Journal of the Appalachian Mountain Club''. Vol 4, pages 161,163,223 & 255〕。ジェニー・アーニー・スタイナーは、その地域での登山に関する性別動態についての記事で、この成長過程の経験がファニーをして女性の権利運動に関わらせるようにしたと述べ、「当時の男性であれ女性であれ、他の良く知られた国際的な登山家といえども、女性の権利について彼女ほど公然とまた熱心に語った者はいなかった」と指摘していた。しかし、ワークマン夫妻のどちらも彼らの住んでいたウースターの田舎暮らしを嫌っており、ヨーロッパで住むことに憧れていた。ファニーとウィリアム双方の父が死んだ後、その莫大な資産を残し、夫婦は最初の大きなヨーロッパ旅行に出発した。行き先はスカンディナヴィアドイツだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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