|
エルネスト・ファネリ(Ernest Fanelli 1860年6月29日 - 1917年11月24日)は、フランスの作曲家。イタリア人の家系に生まれ、1912年に彼の「交響的絵画 ''Tableaux Symphoniques''」が初演された際に、印象派の起源を巡って議論を巻き起こしたことで最もよく知られている。ジョージ・アンタイルはファネリが「発想力と音楽の因習を打破したという意味で史上最も偉大な人物の1人」であると断言していたが〔、彼は世に知られぬままとなっている。 == 生涯 == ファネリはイタリア、ボローニャからパリに移住してきた家庭に生まれた。彼は1876年から数年にわたってパリ音楽院で学んだが、教授陣に異を唱えたことで退学処分となる。彼が音楽院でアルカンに付いて学んだ〔Rosar, W.H. 2004. ''New Grove Dictionary of Music Online'', Oxford University Press.〕というのは誤りである。なぜならアルカンは1848年に音楽院の職を辞していたからだ。しかし、彼が当時音楽院でソルフェージュの教授をしていたアルカンの弟のナポレオン(Napoléon)に学んだ可能性はあるだろう。ドリーブの下で音楽の勉強を再開するまで、彼はティンパニ奏者として働いた。ここでも、今度は資金難により学習を完了させることができず、再び打楽器奏者としての仕事に戻った。彼は独学での作曲の勉強を続け、作品を創作し始めるようになる〔Adriano, Ernest Fanelli (1860-1917), Symphonic Pictures, Marco Polo, p.1-4〕。 1912年にファネリは写譜職人としての職を求めて、ピエルネに自分のしっかりした手書きの見本として作品の草稿を見せた。しかしピエルネはその作品自体に興味をそそられることになる。それはファネリが30年近く前に作曲したと説明する、自作の「交響的絵画 ''Tableaux Symphoniques''」であった。ピエルネはその作品がドビュッシーのその頃の作品を予感させるような、急進的な音楽的革新の証拠となることを見出したのだ。彼は「交響的絵画」の最初の部分である「テーベ ''Thebes''」を編曲、演奏し、音楽雑誌にセンセーションを引き起こした〔。ピエルネはその後、ファネリの他の作品もいくつか演奏している。ドビュッシー自身もファネリの作品を見て、特別な印象を抱いている。それはファネリが「鋭い音楽的装飾の感性」を持っているというものであるが、同時にそれは「(彼が)そのように極端に細かい書き込みをしなくてはならなくなっている原因」であり、そのせいで「彼は方向性を見失っている」というものであった〔。 ファネリは、「交響的絵画」を作曲するインスピレーションを与えた小説「ミイラ物語 ''Le Roman de la Momie''」を執筆したテオフィル・ゴーティエの娘のジュディス・ゴーティエ〔訳注:1845年生まれ、フランスの詩人、歴史小説家。カチュール・マンデスと結婚するもすぐに別れ、ワーグナーとの不倫を経てピエール・ロティと結婚した。(Judith Gautier)〕の援助を受ける。ゴーティエはその曲の私的な演奏会を後援し、さらに彼が自作の編曲を行うために必要な資金を提供した。「セラフィタ=セラフィタス ''Seraphita-Seraphitus''」の特別演奏会は彼女が手配したものであった〔Bettina Liebowitz Knapp, ''Judith Gautier: writer, orientalist, musicologist, feminist'', Hamilton, 2004, pp.250, 299, 310.〕。 ファネリ自身は新たな名声を資金源とすることはできなかった。彼はよく知られるようになる数年前の1894年に作曲を断念しており、以降創作を再開することもなければ、しようともしなかった。彼は妻と子を支えるために演奏家としての仕事を継続し、数年後にこの世を去った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エルネスト・ファネリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|