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ファビアン・アラン・バルテズ(Fabien Alain Barthez, 1971年6月28日 - )はフランス、ミディ=ピレネー地域圏アリエージュ県ラヴェラネー出身のサッカー選手。ポジションはGK。 == 経歴 == 1990年、リーグ・アンの新興勢力であり自らの故郷にも程近い街のクラブ、トゥールーズでキャリアをスタート。すぐに若手の有力株として頭角を現した彼は程なくしてフランス南部の強豪・マルセイユに引き抜かれ、1992-93シーズンにはフランスのクラブ初のUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験する。その後も安定したパフォーマンスを披露し続け、1994年5月26日の対オーストラリア戦でフランス代表デビューも果たした。 1995-96シーズンにASモナコへ移籍。モナコでの5シーズン中にリーグ優勝を2度成し遂げ、フランス屈指のGKとして評価を盤石のものとする。またフランス代表の守護神としても目覚ましい活躍を見せ、1998年、地元開催のフランスW杯では優勝に貢献。レフ・ヤシン賞を獲得。続くEURO2000でもフランス代表を優勝に導き、フランスのみならずワールドクラスのゴールキーパーとしても名声を勝ち得ることとなった。 その活躍が認められて2000年にイングランドの名門・マンチェスター・ユナイテッドFCへ移籍し、リーグタイトルの奪取に貢献する。しかし、前回王者として臨んだ2002年日韓ワールドカップでは自身はウルグアイ戦で好セーブを見せるなどしたが、1分け2敗でまさかのグループリーグ敗退に終わる。その後ユナイテッドでもアレックス・ファーガソン監督を初めとする首脳陣との確執や、時折犯すイージーミスによる能力への疑問視、さらにアメリカ代表GKティム・ハワード、北アイルランド代表GKロイ・キャロル等のポジション争いなどで苦境に立たされる。最終的に2003-04シーズン途中での退団を選択、古巣のマルセイユに復帰した。 マルセイユ復帰後も安定したプレーを続けていたが、2005年2月12日にモロッコのクラブチームとの親善試合中に主審の胸に唾を吐き、フランスサッカー連盟から6ヶ月の謹慎処分を受けてしまう。既にベテランの域に達していたためそのまま引退するのではないかとも囁かれた。しかし、謹慎の解けた後はマルセイユで再びスターティングメンバーに名を連ね、代表にも再招集される。彼の謹慎中に代表のゴールマウスを守り、高評価を得ていたグレゴリー・クーペと2006 FIFAワールドカップドイツ大会に向けて正GKの座を争うこととなった。そしてレイモン・ドメネク代表監督は有力視されていたクーペではなくバルテズを正GKに抜擢。本大会ではチームの失点を7試合中わずか3点に抑える活躍を披露、フランスの準優勝に貢献した。 W杯終了後にチームの若返りの方針によりマルセイユを解雇される。バルテズは故郷で病床にある母と出来る限り生活を共にしたいとの思いから、故郷近郊のクラブであり自らのプロ生活の原点でもあるトゥールーズへの復帰を希望。入団が取り沙汰されるが結局実現せず、2006-07シーズンから無所属となった。 2006年10月5日、現役引退を発表。「まだ2年は出来るつもりだった」と本人が語ったように余力を残しながらの引退であり、12月17日に引退撤回を発表した。新たな所属先は降格ゾーンに低迷する古豪FCナント。パリ・サンジェルマンFCに移籍したミカエル・ランドローの穴を埋めるべく、豊富な経験とピンチを救う技術の披露が期待されたが、チームの降格が決定したことがきっかけでファンとの揉め合いを起こし、シーズン終了を待たずに退団した。 その後どのチームにも所属していないが、現役引退に関しては否定している。トゥールーズにゴールキーパーの養成学校を設立しており、将来的にはそこで指導を行う予定であるようだ。またフランス代表監督に就任したローラン・ブランからGKコーチとして代表スタッフ入りを打診されたが、固辞している。 その後はモータースポーツ活動をしており、2013年のフランスGT選手権王者になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファビアン・バルテズ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fabien Barthez 」があります。 スポンサード リンク
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