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ファン・ダリエンソ : ウィキペディア日本語版
ファン・ダリエンソ

ファン・ダリエンソ(Juan D'Arienzo、1900年12月14日 - 1976年1月14日)は、アルゼンチン・タンゴヴァイオリン奏者オルケスタ・ティピカ(タンゴにおける典型的な編成の楽団)の指揮者。鋭いスタッカートによるリズムを強調した演奏スタイルで、今もなお根強い人気がある。
== 生涯 ==
1900年ブエノスアイレスのバルバネーラに生まれる。父は実業家で、母の家系には音楽関係者が多かったという。8歳の頃からヴァイオリンを習い始め、13歳でプロ生活に入ったといわれる。20歳代では劇場オーケストラジャズ・バンドなどで演奏していたが、1928年に独立し自身のオルケスタ(楽団)を組織した。
1930年代に入ると、世界的経済不況によりタンゴ楽団の活躍する場が大幅に失われ、代わってジャズが流行し始めた。ここでダリエンソはタンゴの命とも言われるリズムにこだわり、踊り手のために極端に激しいリズムを刻む演奏スタイルをとった。この独特のスタイルは「電撃のリズム」と称賛され、ダリエンソは「El rey del compás」(リズムの王様)という異名をとる。
1935年ピアニストロドルフォ・ビアジの参加を得て、ますますリズムは鋭くなる。バンドネオンが刻む主旋律にヴァイオリンオブリガートをかぶせるダリエンソ・スタイルは、この頃すでに確立されていたと言われる。7月2日、RCAヴィクトルに、専属第1号となる「HOTEL VICTORIA」(フェリシアーノ・ラターサ作曲)を録音する。以後、多くのグアルディア・ヴィエハ(古典曲)を取り上げて人気を博し、タンゴ界をよみがえらせた。この頃が、ダリエンソ楽団の第1黄金期とされる。
1938年、ピアニストがビアジからファン・ポリートに交代したが、ほどなくしてポリートはじめメンバーのほとんどが脱退した。新たに当時19歳のフルビオ・サラマンカを迎えて再出発する。サラマンカの華麗な奏法はダリエンソ楽団の演奏に一層輝きを添え、アンサンブルも完璧なまでに充実してきた。ダリエンソの人気は常に最高で、まったく衰えることがなかった。サラマンカを擁した1950年頃が、ダリエンソ楽団の第2期黄金期とされる。
1957年、サラマンカの独立により、再びファン・ポリートがピアニストとして復帰する。人気は相変わらずで、レコードもよく売れた。1964年にはグァルディア・ビエハ(古典曲)中心のLP「EL REY DEL ESTEREO」を録音し、日本でも発売された。このアルバムでは、鋭いリズムはそのままで、テンポが以前よりゆったりとしており、風格を感じさせるものとなっている。
1968年、ダリエンソ楽団は日本各地で公演を行った。ただ、飛行機嫌い〔メンバーを飛行機事故で失ったため〕の指揮者ダリエンソ自身は来日せず、メンバーだけの演奏となった。演奏そのものはスタジオ録音と寸分違わぬ密度の高いものであり、音楽に対する厳格な姿勢が表れている。
最後の録音は1975年、RCAへの10曲である。これが、最後の指揮活動となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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