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フアード・シハーブ(アラビア語表記:、ラテン語表記:、1902年3月19日-1973年4月25日)は、レバノン共和国の政治家。同国大統領(第10代:1958-1964)、大統領代行を務めた。 == 陸軍時代 == 1902年に、先祖に高貴な家系を持つキリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)の家庭で生まれたシハーブは、1945年にレバノン陸軍の司令官に就任した。 1952年、ビシャーラ・アル=フーリー政権が汚職で辞職を余儀なくされた際には、陸軍が、政治に介入することを拒否する姿勢を示した。シハーブは、フーリー退陣後、4日間だけ暫定政権を率いた経験を持つが、それは、フーリー退陣後の公正な大統領選挙を実施するためであり、カミール・シャムーンが大統領に選出されるとその職を辞した。 1957年のシャムーン政権によるゲリマンダーのもと、行われた選挙の結果、シャムーン政権に反対の立場を採るシーア派、ドゥルーズ派などのイスラーム勢力は、議席を失う結果となった。エジプトやシリアなどの汎アラブ主義の台頭とあいまって、レバノン国内では暴動が発生するようになった(レバノン危機)。 その際、シハーブは将軍の立場にいたが、シャムーン政権による暴動鎮圧の要請を断っている。国内情勢のこれ以上の悪化を回避するためと考えられている。 シャムーン政権は、アメリカのアイゼンハワー大統領に事態の沈静化を要請し、アメリカ海兵隊がベイルートに上陸した。ムスリムとアメリカの支持を得たシハーブは、シャムーンの後継者になるように要請を受けた。 大統領就任にあたり、シハーブは、「今回の革命では、勝者も敗者もいない」と宣言した。シハーブは、世俗、宗教勢力のそれぞれの協力を得て、レバノン国内情勢の沈静化と緊張の緩和を取り戻すことに成功した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フアード・シハーブ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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