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フィネアス・ゲージ : ウィキペディア日本語版
フィネアス・ゲージ

フィネアス・P.ゲージPhineas P. Gage、日本語ではフィニアスとも表記、1823 - 1860)〔
ゲージの両親は、ジェス・イートン・ゲージ (Jesse Eaton Gage)とハンナ・トルッセル・ゲージ (Hannah Trussell Gage)であるが(Macmillan (2000), pp. 490–1)、Macmillan (2000), pp. 11, 16ではゲージの誕生と成長に関する他の状況(とりわけ正確な生誕地)の不確かさについて述べられている。生まれ故郷として候補になっているのは、ニューハンプシャー州レバノン (Lebanon, New Hampshire)、エンフィールド (Enfield, New Hampshire)、グラフトン (Grafton, NH)である(これらはすべてニューハンプシャー州グラフトン郡 (Grafton County, N.H.)に位置する)が、ハーロウは1868年の論文でこのうちからレバノンをゲージの「生まれた地」であり、ゲージが事故後10週間めに帰った「彼の故郷」(おそらくゲージの両親の故郷でもある)としている。


ゲージの死と埋葬は Macmillan (2000), p. 108 で議論されている。ハーロウはゲージの死亡日を”ぴったり”1年ずらしていて、ゲージの人生の後半に生じた事でハーロウが日付を提示しているいくつかの出来事-チリからサンフランシスコへの帰還や痙攣の発症-の日付も、おそらく同じだけ異なっている可能性がある。この記事では日付を正すためマクミランの文献に従う。


ゲージのミドルネームの頭文字が「P」であることはまず間違いないが (figure, Macmillan 2008, p. 839; Harlow 1848/1868; Bigelow 1850)、Pが何の頭文字であるかを示す情報はない。突き棒に彫り込まれたゲージのファーストネームについての注意書きも参照のこと。〕は、米国の鉄道建築技術者の職長である。今日では、大きな鉄の棒が頭を完全に突き抜けて彼の左前頭葉の大部分を破損するという事故に見舞われながらも生還したこと、またその損傷が彼の友人たちをして「もはやゲージではない」と言わしめるほどの人格と行動の根本的な変化を及ぼしたことによって知られている。
このフィネアス・ゲージの事故は、長年「アメリカの鉄梃事件 (the American Crowbar Case)」とよばれ、一時は「他のいかなる事件よりも我々の興味をそそり、予後というものの価値を落とし、生理学の理論を覆しまでした事件」〔Campbell, H.F. (1851) "Injuries of the Cranium—Trepanning". ''Ohio Med. & Surg. J.'' 4(1):31–5, crediting the ''Southern Med. & Surg. J.'' (unknown date)〕とまで言われた事件であり、19世紀当時の精神と脳とに関する議論、とりわけ脳内の機能分化に関する議論に影響を及ぼした〔Barker (1995); Macmillan (2000) chs. 7–9.〕。またこの事件は、脳の特定の部位への損傷が人格に影響を及ぼしうることを示唆したおそらく初めての事例である。
ゲージは、神経学精神医学、およびこれらの関連分野の課程では必ず登場する名前であり、書籍や論文でもしばしば言及されている。また大衆文化においても多少知られている〔 LeUnesの調査により、ハーロウの1868年の論文が20世紀の精神科学の論文で2番目に多く引用されていることが知られている。大衆文化の例では、グループの名称を「フィネアス・ゲージ」またはそのバリエーションとしている音楽グループがいくつか存在する。〕。 この知名度の高さに比べ、事件の骨子で知られている内容は明らかに少なく、このため長年にわたって、脳と精神に関する互いに矛盾した様々な理論の裏付けとして引用されるという状態になっている。出版物を対象とした調査では、ゲージについての現代の科学的な発表でさえも、過度に誇張されたり既知の事実に明らかに反していたりと、激しく歪曲させられていることが多いことがわかった。
ダゲレオタイプの肖像写真 - "凛々しい…身だしなみよく、自信ありげで、堂々としてすら見える"、彼を傷つけた鉄の突き棒を手にした姿が、2009年にゲージのものであると確認された (''下部参照'')。ある研究者は、この姿を「社会復帰」仮説と矛盾がないものと指摘している。この仮説では、ゲージの精神変化の最も深刻な部分は事故後ほんのしばらく続いただけであって、後年の彼は以前考えられていたよりももっと機能的に行動でき、社会的にもずっと適応できていたとされている。もう一枚の肖像写真(右)が2010年に発見された。
== ゲージの事故 ==
1848年9月13日、25歳のゲージは、作業員の職長として、バーモント州の町カヴェンディッシュ (en)の外れで、ラットランド・アンド・バーリントン鉄道 (en)の路盤を建設するための発破を行う任務にあたっていた。爆薬を仕掛けるために、岩に深く穴を掘り、火薬ヒューズを入れて、の突き棒で突き固める作業があった。〔発破の穴は直径がおよそ38mm、深さが1.8mあり、手作業では二人がかりで半日以上かかったと推測される。発破を仕掛けるのに投入されるべき労力と、発破を仕掛ける位置や火薬の量を決定する判断力、そしてときにはこの種の仕事につきものの雇用者-被雇用者関係の紛糾などは、事故前のゲージを他の作業員たちが「職場で最も有能な職長」とみなしていたというハーロウの主張の重要性を強調するものである。〕ゲージはこの仕事を午後4時半ごろ行なっていたが、(おそらく砂が入れられていなかったため)突き棒が岩にぶつかって火花を発し、
ゲージの事故を「アメリカの鉄梃事件」とした19世紀当時の文献は内容を明確にする必要がある。ゲージの突き棒には鉄梃(バール)につきものの湾曲部や鉤がなく、むしろただの円柱状であり、「円くて、使用によってわりと滑らかになっていた〔
Harlow (1848), p. 331〕」。
重量が6kgあったこの”突然図々しくすっ飛んできた客”〔Bibliographical notices. ''Recovery from the Passage of an Iron Bar through the Head.'' By John M. Harlow, M.D., of Woburn. (1869). ''Boston Medical and Surgical Journal,'' March 18, 1869. 3(7)n.s.:116–117.
19世紀当時のゲージに関する医学記事では(類例のないような他の脳損傷事故の被害者についても同様ではあるが)、驚いて当惑した文体が見られるのが普通であった。無味乾燥に「この事件の最も注目すべき点は、ありそうもない事が生じた点である。…劇場のパントマイムでもなければありそうにもない類いの事故である。」と記したビグローは (1850, pp. 13,19) 、「はじめは頭から疑っていたが今では個人的には納得している」と述べ、この事件を「外科の年代録でも見たことがない」と述べている。ビグローの名声は他の外科医の間でゲージのことを嘲ることで終了した。この外科医の一人だったハーロウは (1868, p. 344) 、後にこの事を「ヤンキーの発明」と呼び退けている。


ガスパイプが頭部を貫通したが助かった鉱夫の事故や、鋸が前額部に9インチの深さで食い込んだにもかかわらず速やかに元の仕事に復帰した製材所の職長の事故とゲージの症例が結び付けられるようになってから後、『ボストン内科外科雑誌』(1870年)は脳には果たして何らかの機能があるのかと疑うそぶりを見せた。「鉄の棒だの、ガスパイプだの、その他胡散臭い代物の突飛さは覆されたし、自ら何かを言おうとはしない。最近では脳に重要な価値などないように思える。」 The Transactions of the Vermont Medical Society (1870年)も同様に滑稽な述べ方をしている。「『これまでは、』とマクベスは言った、『脳味噌が無くなると人は死ぬものだった。しかしまたしても奴らは立ちあがる。』ドイツのどこかの教授が脳味噌を取り出そうとしているという知らせを聞く可能性は十分ありうる。」〕は、血液と脳にまみれて25mほど先に落ちたと言われている。
驚くべきことに、ゲージは数分もたたないうちに口を利き、ほとんど人の手も借りずに歩き、街にある自宅への1.2kmを荷車に乗っているあいだ背筋を起こしたまま座っていた。最初に彼のところへ到着した医師はエドワード・H.ウィリアムズ博士であった。
ジョン・マーティン・ハーロウ医師 (en)が1時間ほど後にこの症例の担当となった。
ハーロウの熟達した診療にも関わらず、ゲージの回復には時間がかかり困難を伴った。脳圧が高かったため〔
9月24日:「虚弱になってきている。…この3日間というもの昏睡が深まっている。左の眼球はますます突出してきており、内眼角からは菌が急激に生え出てきている。…大きな菌もまた傷を負った脳から急激に増殖して、頭頂部から飛びだしている (Harlow 1868, p. 335)。」
ここでの「菌」は感染性の真菌類ではなく、おそらく損傷治癒に伴う海綿状の生成物で、創傷部で活発に肉芽が形成されていたのであろう(Macmillan 2000, pp. 54, 61–2)。
〕ゲージは9月23日から10月3日までなかば昏睡状態にあり、「話しかけられない限りほとんど口を利かず、返事も1シラブルのみである。友人や看護の者は彼が数時間のうちに亡くなるであろうと予想しており、棺と死装束を準備している〔Harlow 1848 と Harlow 1868より抜粋。〕 。」
しかし、10月7日にはゲージは「起き上がることに成功し、一歩歩いて椅子にたどり着いた」。一か月後には彼は「階段の上り下りができ、家の周りを歩いたり、ベランダに出たりすることができた」。そしてハーロウが一週間留守にしている間ゲージは「日曜以外は毎日通りに出ていた」。彼の希望は、ニューハンプシャーの家族のもとへ帰って「友人らに煩わされずにすむこと…足を濡らして寒気がした」。彼はすぐに熱を出したが、11月半ばまでには「あらゆる点で以前より良好。…再び家の周りを歩いている。頭は全く痛くないとのこと。」この時点でのハーロウの予見は以下のようであった。「ゲージは回復の方向に向かっているようである、ただし制御できるならばだが。」〔
Harlow (1848), pp. 391–3;
Bigelow (1850), pp. 17–19;
Harlow (1868), pp. 334–8.〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フィネアス・ゲージ」の詳細全文を読む



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