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フィリップ・ヘルシュコヴィチ(, 1906年9月7日 – 1989年1月5日)はルーマニア出身のユダヤ人作曲家・音楽理論家。ウィーンでアルバン・ベルクやアントン・ウェーベルンに師事した後、1940年から1987年まで約半世紀にわたってソビエト連邦に過ごし、新ウィーン楽派の作曲技法をロシアにもたらした。ロシア語ではフィリップ・ゲルシュコヴィチ()として知られる。また、欧米ではフィリップ・ヘルシュコヴィッツ(''Philipp Herschkowitz'')と紹介されている。'Philipp Herschkowitz'')と紹介されている。')と紹介されている。 == 略歴 == ヤシにユダヤ人の家庭に生まれる。1927年にヤシ音楽院を卒業すると、ウィーン音楽院に留学してヨーゼフ・マルクスに師事した。その後1928年から1931年までアルバン・ベルクに、1934年から1939年までアントン・ウェーベルンの個人指導を受けたが、オーストリアがナチス・ドイツに併合されたのを機にオーストリアを離れ、1940年にソビエト連邦に入った。当初はチェルノフツィに住んだが、1941年6月22日にバルバロッサ作戦により第三帝国軍がソ連への侵攻を開始したため、ウズベクに疎開し、1944年までタシケントに暮らした。 1946年にモスクワに定住すると個人指導を開始し、ロシア楽壇に数世代にわたって多大な影響力を及ぼした。こうした中には、いわゆる「地下分派」の主要人物たちもまじっており、アンドレイ・ヴォルコンスキーやエディソン・デニソフ、アルフレート・シュニトケ、ソフィヤ・グバイドゥーリナ、ニコライ・カレートニコフ、ボリス・ティシチェンコ、ヴァレンティン・シルヴェストロフ、レオニード・グラボフスキー、ヴャチェスラフ・アルチョーモフ、ヴラディーミル・ダシュケヴィチ、アレクサンドル・ヴスティン、ヴラディスラフ・シューチ、ヴィクトル・ススリン、ディミトリー・スミルノフ、エレーナ・フィールソヴァ、レオニード・ゴフマンといった作曲家だけでなく、ミハイル・ドルスキンやナタン・フィッシュマン、ユーリ・ホロポフらの音楽学者も含まれていた。 ヘルシュコヴィチは、ウェーベルンの最も重要な高弟の一人であり、恩師の着想の理解と敷衍に生涯をささげた。ウェーベルンの音楽思想を究明して、理論的に基礎づけることに関心を示し、過去の巨匠(特にベートーヴェン)の作品の分析に重点を置いた。このような姿勢の核心は、ふたつの根本的なカテゴリー(「固定」と「流動」)の対比という観点によって楽曲素材を探究したことに表れている。 1987年にアルバン・ベルク財団の招きでウィーンに戻ると、2年後に同地に客死した。4巻からなる著作『音楽論』は、1991年[から1997年にかけてヘルシュコヴィチ未亡人によって編集・出版された。同書はヘルシュコヴィチの指導の精髄が含まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィリップ・ヘルシュコヴィチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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