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フィリップ王戦争(King Philip's War)とは、1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争(民族浄化)。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)の事で、白人入植者は彼をそう呼んでいた。 ==概要== イギリス白人がニューイングランドと名付けた入植地で、彼らはワンパノアグ族から手厚い保護を受け、食料を贈られ厳しい冬の飢餓と寒さを越えることが出来た。しかし白人たちの入植地の拡大はエスカレートし、やがてはインディアンたちの領土をよこせ、と要求し始めた。 インディアンにとって土地は共有財産であり、だれのものでもなかった。しかし白人の要求は、インディアンすべてを立ち退かせる排他的なものだった。当然インディアンたちは激怒した。また白人はこの取り決めを「公平」に「条約」で行おうとし、その署名者として彼らの酋長を選んだ。 しかしインディアンの社会は、白人の独任制と違い、合議制である。部族を代表する首長や君主は存在しない。酋長はあくまで調停者であって、部族を代表するものではないのだが、白人にはこれが理解できなかった。入植者は酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んだが、これは全くの思い違いである。 元々ワンパノアグ族は白人入植者達に対して友好関係を築いており、1620年酋長のマサソイトは慣れない環境による寒さや病気、飢えで苦しむ白人入植者を助け、平和と友情による条約を結んでいる。1621年の秋、感謝祭の際にもマサイットは多くの食料を持参して列席している。 しかし急激に増加した白人の入植者は、彼らインディアンの土地を売るように要求したり、強引なキリスト教への改宗強制や、インディアンに不利な裁判を行い、インディアンの白人に対する反感を買い始めた。インディアンに「土地を売る」という概念はそもそもなかったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとする白人の思考はインディアン共同体には理解不可能だった。 さらに白人と友好を築いていたマサソイト酋長が死ぬとさらに状況は悪化する。マサソイト死後、ワンパノアグ族の新酋長は息子のワムスッタ(アレキサンダー)になるが、白人側は彼らが住む土地にまで入植地を拡大して行った。そのためワムスッタは「調停者」たるインディアンの酋長の役目として、白人が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と和平条約に異議申し立てをプリマス入植地で行い、侵略行為を止めるよう説得した。が、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺されたとも言われる)による謎の死を遂げてしまう。 そして新たに24歳のワムスッタの弟メタコメットが新酋長になると、白人との関係はさらに悪化して行った。メタコメットも兄ワムスッタと同様に、調停者として最大の努力を払い、白人との友好関係を続けていくことに苦心していた。 しかし誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は、合議の結果、部族の土地を侵す白人に対して、ついに宣戦布告の準備を始めた。1675年6月25日キリスト教に改宗したワンパノアグ族で、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモンが、プリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている」と通報したが、その後ササモンは別部族のインディアンに殺されてしまった。 ニューイングランドのインディアン部族はこれ以上白人の横暴を許せなかった。メタコメット酋長らのワンパノアグ族は、ニアンティック族、ペナクック族、ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と共同して、プリマス入植地を攻撃した。攻撃された入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族やモホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。インディアン側はニプマック族やナラガンセット族も参戦。プリマス入植地総督のウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺し、怨みを買っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィリップ王戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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