翻訳と辞書
Words near each other
・ フィルモ (撮影機)
・ フィルモア
・ フィルモアの奇蹟
・ フィルモア・イースト
・ フィルモア・イーストの奇蹟
・ フィルモア・イースト・ライヴ
・ フィルモア郡
・ フィルモア郡 (ネブラスカ州)
・ フィルモア郡 (ミネソタ州)
・ フィルモン
フィルモン・ポウノル
・ フィルン
・ フィルヴォルグ
・ フィルヴォルグ族
・ フィル・アトラス
・ フィル・アルデン・ロビンソン
・ フィル・アンセルモ
・ フィル・アンダーソン
・ フィル・アーウィン
・ フィル・イン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フィルモン・ポウノル : ウィキペディア日本語版
フィルモン・ポウノル

フィルモン・ポウノル(Philemon Pownoll、1734年頃-1780年6月15日)はイギリス海軍士官である。オーストリア継承戦争七年戦争アメリカ独立戦争で活躍し、ポストキャプテン(肩書きのみならず職権をも有する大佐)にまで昇進した。
ポウノルは一流の船大工の子として生まれ、オーストリア継承戦争の最後の年に海軍に入った。数年間の任務の後、七年戦争の勃発時には自分で艦を指揮するほどにまで出世した。七年戦争ではを指揮し、戦闘のすべてを通じて最も価値のある船を拿捕して、一夜にして大金持ちになった。ポウノルは結婚して土地を買ったが、その富にもかかわらず、アメリカ独立戦争の勃発とともに第一線に戻った。現役の間を通じて、ポウノルは、エドワード・ペリューやといった著名な艦長たちの教師的な存在だった
北アメリカにおいて部隊の支援や輸送をうまくこなし、その行動は際立っていた。また、ジブラルタル包囲戦のような、より大きな艦隊による海戦にも参戦した。1779年には、フランス私掠船と激しい戦いを繰り広げ、その時に胸に銃弾を受け、その後、彼が死ぬまでその銃弾は取り去られることはなかった。翌年、またも重装備の私掠船と交戦し、そのさなかに砲弾を受けて戦死した。この交戦は指揮下の1等海尉ペリューが勝利に持ち込んだ。彼の戦死は、ジョン・ジャーヴィスやエドワード・ペリューをはじめとする、同時代の主な海軍軍人からの尊敬を受けた。
==家族と海軍入隊==

ポウノル〔ポウノールPownall、ポウネルPownellともいわれる。Oxford Dictionary of National Biographyではポウノルとなっている。〕は1734年頃に、船大工のイスラエルの息子としてプリマスに生まれた。父は船大工としての生活の中で、数多くの軍艦を手掛け、1762年から1765年までは船大工の棟梁としてプリマスの乾ドックで、1775年から1779年まではチャタムの乾ドックで仕事をしていた。その1779年にイスラエルは亡くなった、イスラエルはロンドンのシャドウェルとクラーケンウェルに土地を持っていた。おそらくはその当時、シャドウェルやワッピングといった地域の独立した船員や、開業していた商人から譲り受けたものだったのだろう。イスラエルはニューイングランドにも伝手があった。海事の古物収集家であるエドワード・ホーク・ロッカーは、後に、息子のフィルモンを「アメリカ育ちのジェントルマン」と表現している〔。
1748年頃、フィルモン・ポウノルは海軍に入隊し、64門艦に乗務した。1755年4月7日に海尉試験に合格したが、その当時の記録では彼の年齢は「20歳以上」となっている。1755年10月7日には海尉に昇進した。最初は二等海尉として60門のに乗り、その後100門のに転属された。七年戦争の勃発と共に海軍の任務を続け、1758年に74門艦に移った。は当時、エドワード・ボスコーエン提督旗艦であった。ボスコーエンはポウノルの保護者となり、このおかげでポウノルは四等海尉から一等海尉に早期に出世することができ、そして1759年8月6日にはスループ艦の指揮官となった.〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フィルモン・ポウノル」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.