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フィル・エスポジト : ウィキペディア日本語版
フィル・エスポジト

フィル・エスポジトPhil Esposito、本名:Philip Anthony Esposito1942年2月20日 - )はカナダオンタリオ州スーセントマリー生まれの元アイスホッケー選手。多くの者からNHL史上最も優れた選手の一人として認められている。オーダー・オブ・カナダ受勲者。ホッケーの殿堂入りを果している。
== 来歴 ==
エスポジトは、1964年のシーズンからシカゴ・ブラックホークスに加入した。当時、偉大なるボビー・ハルにセンタリングすることで、自身が良質なゲームメーカーであることを証明してみせるとともに、2度のリーグ得点王に輝いた。
1967年には、電撃的ともいわれるトレードでケン・ホッジ (Ken Hodge) 、フレッド・スタンフィールド (Fred Stanfield) とともにボストン・ブルーインズに移籍した。
ケン・ホッジとフレッド・スタンフィールドは、ブルーインズ入団後も従来とかわらず平凡なスター選手にとどまったが、エスポジトはその偉大なる得点能力を開花させ、1968-1969シーズンにNHL初のシーズン100得点超えとなる126得点をたたき出した。また、この後も1971年から1975年までの5年連続を含む現役通算6度のシーズン100得点超の記録を樹立した〔。
エスポジトは、NHL のオールター戦において第1チーム(スターターメンバー)に1969年から1974年まで6年連続で選出され、1969年、1974年には、リーグの最優秀選手 (MVP) に輝いている。当時、ボストン・ブルーインズのエスポジトファンは、彼の得点を祝うため車のバンパーに次のような文言が記されたステッカーを貼った - "Jesus saves, Espo scores on the rebound." (「イエスは救い給う、エスポジトは、リバウンドを得点する。」)。
エスポジトの絶頂期には、同僚の同じくスーパースターボビー・オアとともに、ブルーインズを1970年と1972年のスタンレー・カップ優勝に導いた。
1970-1971シーズンには、エスポジトは従来の記録を破り、当時シーズン最多ゴール記録となる76ゴールを上げた。この記録は、1982年2月に、ウェイン・グレツキーが対バッファロー・セイバーズ戦で79ゴール目を上げるまで、リーグ最高記録であった。この試合で記録を抜かれたエスポジトは、ゲームで使用されたパックをグレツキーに手渡しでプレゼントした。なお、エスポジトは1971年にシーズン最多ポイントの記録も打ち立てたが、この記録も同様にグレツキーによって更新された。
エスポジトは、1972年に開催されたサミット・シリーズ (Summit Series) で、カナダチームを鼓舞するキャプテンの役割を果たすとともに、このシリーズの得点王に輝いた。これにより、同年のカナダで最も活躍した運動選手に与えられるルー・マーシュ・トロフィーを獲得するとともに、オーダー・オブ・カナダのメンバーに選出された。
また、1976年開催のチャレンジ・カップ (Challenge Cup) 、カナダ代表や1977年の世界選手権大会 (World Championships) にも選手として出場をしている。
1975-1976シーズン、彼はチームメートの Carol Vadnais とともに、ブラッド・パーク (Brad Park) 、Jean Ratelle との交換トレードでニューヨーク・レンジャースに移籍した。この頃になると、彼の攻撃力も往時の輝きを失いつつあったが、それでもレンジャースのキャプテンを務めて、全試合に出場しチームを適切に導いて、引退するまでチームに有益なポイントゲッターであり続けた。エスポジトは、1981年に現役を引退し、その後放送のキャスターに転身を図った。
1980年代の中盤で3年間レンジャースのマネージャー及びコーチを務め、1992年には、NHL チーム数拡大に伴ってタンパベイ・ライトニングの設立に一役買った。1998年までは、ライトニングの会長及び総支配人を務め、その後も同チームのラジオ解説者として活躍を行った。
1984年には、ホッケーの殿堂入りを果たした。エスポジトの着用した背番号7番は、一時ボストン・ブルーインズのスーパースターでディフェンスのレイ・ボークが着用していたが、ボークはエスポジトの栄誉を称えてこれを返上し、感動的なセレモニーを経て、ブルーインズの永久欠番となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フィル・エスポジト」の詳細全文を読む



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