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フェリーチェ・ベアト
フェリーチェ・ベアト(ベアートとも、Felice Beato、1832年 - 1909年1月29日)は、イタリア生まれのイギリスの写真家。後に英語風にフェリックス・ベアト(Felix Beato)と名乗った。フェリス・ベアトと表記されることもある。1863年から21年間横浜で暮らした〔Portraits From the Dawn of a New Era Visualizing Cultures, MIT, 2009〕。 東アジアの写真を撮影した初期の写真家の一人であり、また初期の従軍写真家の一人でもある。日常写真、ポートレイト、またアジアや地中海の風景や建物のパノラマ写真で有名である。ベアトはいくつもの国に旅行し、それらの国、人々、事件を撮影したが、遠く離れてそれらになじみの少ないヨーロッパや北アメリカの人々にとって記憶に残るものであった。インド大反乱やアロー戦争の記録も撮影しており、最初期の報道写真ともいえる作品を残している。彼は他の写真家に大きな影響を与えたが、特に日本においては、非常に多くの写真家・芸術家に深く、かつ長期にわたる影響を与えた。 == 出身と国籍 == ベアトの出身や国籍にはいろいろと混乱があり、また没年もこれまで不明であったが、現在ではおおむね正確なことが分かっている。2009年に発見された死亡証明書によると、ベアトは1832年にヴェネツィアで生まれ、1909年1月29日にフィレンツェで死亡した。またイギリス国籍を有しており、大学を卒業していた〔Bennett 2009, 241. Recent scholarship had uncovered an application by Beato for a travel permit in 1858 that included information suggesting he was born in 1833 or 1834 on the island of Corfu. Dobson, "'I been to keep up my position'", 31. Earlier sources had given his birth date as 1825 or ca. 1825, but these dates may have been confused references to the possible birth date of his brother, Antonio. However, the death certificate discovered in 2009 provides the first definitive evidence of Beato's dates and places of birth and death.〕。幼少の頃に、家族と共にギリシャのケルキラ島に移住したようである。当時イオニア諸島は英国の保護国であったため、イギリス国籍を取得したものと思われる〔Bennett 2009, 241; Dobson, "'I been to keep up my position'", 31. Beato has long been described as British, Italian, Corfiot Italian, and/or Greek. The peculiarities of the movements of his family and of early nineteenth century history in the Adriatic mean that Felice Beato can justifiably be described by all these terms. Corfu was on and off part of Venetian territory from 1386 until 1815, when the Treaty of Paris placed it and the other Ionian Islands under British "protection". Corfu was finally ceded to Greece in 1864. A line of the Beato family is recorded as having moved to Corfu in the 17th century and was one of the noble Venetian families that ruled the island during the Republic of Venice. Gray, 68.〕。 「Felice Antonio Beato」または「Felice A. Beato」と署名された写真が多数存在するために、一人の写真家があるときはエジプト、あるときは日本と離れた場所でほぼ同時期に活動していたと、長い間思われていた。しかし、1983年にChantal Edel〔Zannier 1983, n.p.〕によって、「Felice Antonio Beato」はフェリーチェと兄アントニオ(Antonio Beato)の連名であることが分かった。彼らは時には一緒に活動し、同一の署名を用いていた。このため、現在でもがフェリーチェが撮影したのかアントニオが撮影したのか特定できないものがある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェリーチェ・ベアト」の詳細全文を読む
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