翻訳と辞書
Words near each other
・ フェリックス・モットル
・ フェリックス・ユスポフ
・ フェリックス・ライター
・ フェリックス・ラミーレス
・ フェリックス・ラヴェッソン
・ フェリックス・リュール
・ フェリックス・レガメ
・ フェリックス・レガメー
・ フェリックス・ロッホ
・ フェリックス・ワインガルトナー
フェリックス・ヴァインガルトナー
・ フェリックス・ヴァロットン
・ フェリックス・ヴィック・ダジール
・ フェリックス作戦
・ フェリックス=クレール・リデル
・ フェリッサ・ウルフ=サイモン
・ フェリッサ・ローズ
・ フェリッツァーノ
・ フェリット
・ フェリッド・ブーゲディール


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フェリックス・ヴァインガルトナー : ウィキペディア日本語版
フェリックス・ワインガルトナー

エドラー・フェリックス・パウル・ワインガルトナー・フォン・ミュンツベルクEdler Felix Paul Weingartner von Münzberg, 1863年6月2日ザーラオーストリア帝国ダルマチア。現・クロアチア) - 1942年5月7日ヴィンタートゥール)は指揮者作曲家ユダヤ系。標準ドイツ語の発音に近い「フェーリクス・ヴァインガルトナー」と表記される場合もある。
== 生涯 ==
4歳の時に父親の死去により、一家とともにグラーツに移る。グラーツ時代から音楽の勉強を始め、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの知己を得て、1881年にハンスリックの推薦でライプツィヒ大学に入学。初めは哲学を専攻するが、程なく音楽に身を投じグラーツ、ライプツィヒヴァイマルの各音楽院で学んだ。ヴァイマルではフランツ・リストの弟子となった。1882年にはリストの推挙を受け、彼の作品を上演する機会に恵まれたが、安定した生活を求めて作曲家から指揮者に転じた。
1885年ケーニヒスベルク、次いでダンツィヒハンブルクの各歌劇場の指揮者となる。1889年マンハイム国民劇場のホーフカペルマイスター、1891年にはベルリン宮廷歌劇場(現、ベルリン国立歌劇場)の首席指揮者となり、1898年まで務めた。1908年にはグスタフ・マーラーの後任としてウィーン宮廷歌劇場(現、ウィーン国立歌劇場)とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(当時は常任指揮者制)の音楽監督に就任した。歌劇場の方は3年で辞任(後に1934年1936年のシーズン音楽監督に復帰している)したが、ウィーン・フィルの常任は1922年まで続いた。途中、1919年にはウィーン・フォルクスオーパーの音楽監督も兼ねた。
1934年から1936年にはザルツブルク音楽祭にも出演した。また、1898年以降イギリスのオーケストラにしばしば客演し、南北アメリカにも単身渡米での客演やウィーン・フィルとのツアーで訪れている。1937年朝日新聞と日墺協会の招聘で、4度目の夫人(3度目とする書物もある)で指揮の弟子でもあったカルメン・テューダーとともに来日、夫婦で新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮した。ナチの勢力拡大とともにパリに逃れ、第二次世界大戦勃発直前にロンドンへ向かい、最後はウィーン辞任後定住していたスイスに戻り、1942年5月7日にヴィンタートゥールの病院で亡くなった。
弟子にはハンス・スワロフスキーヨーゼフ・クリップスシクステン・エッケルベリクルト・ヴェスゲオルク・ティントナー等がいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フェリックス・ワインガルトナー」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.