|
フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。イングランド女王メアリー1世と結婚期間中共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。また1580年からはフィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。 スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。彼の治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。 1580年にはポルトガル国王も兼任し、イベリア半島を統一するのと同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。ポルトガルはイギリスの飛び地ともいえるような同盟国であったから、スペインの繁栄はイギリスにとって面白くなかった。1588年、イギリスはフェリペをアルマダ海戦で破った。アルマダ建造のために多くの山が禿げていた。 フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)が引きつぐはずだった帝国郵便は、フェリペ2世が事業を継承、維持費を負担していた。元々ネーデルラントを中心とする郵便網は、オランダ独立戦争によって権益をさらに侵食された。財政も破綻してしまった。もっとも、国家破産は戦前二度も経験している。産業育成を怠り、財源を中南米の金銀とネーデルラントの税収に頼っていた。 ペスト流行による人口減は彼の治世に終わりを告げた。 1925年発行の100ペセタ紙幣に肖像が使用されていた。 == 生涯 == === 出生から即位まで === 1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれた。スペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出された父カルロス1世は当時のヨーロッパで最大の勢力を持ち、ヨーロッパ以外の広大な領土とあわせて、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。なお、現在のフィリピン共和国、フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年、スペイン人のコンキスタドールによってラス・フィリピナス諸島と命名されたことに起源を発するが、これは、当時アストゥリアス公だったフェリペの名に由来する。 フェリペは1556年1月16日、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎ、スペイン王フェリペ2世として即位した。28歳であった。既に1521年にオーストリア大公、1531年にドイツ王となっていた叔父フェルディナントは、この時に皇帝位を継承した。こうしてハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェリペ2世 (スペイン王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Philip II of Spain 」があります。 スポンサード リンク
|