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フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ : ウィキペディア日本語版
フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ
フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ(独:''Ferdinand Anton Ernst Porsche'' 、1909年〔『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.223-227。〕〔『ポルシェ博物館/松田コレクション資料』pp.12-13「ポルシェ社の歴史と現況」。〕9月19日〔『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.137-141「フェリィ・ポルシェ」。〕 - 1998年3月27日)は、オーストリア実業家自動車工学技術者、自動車デザイナーフェリー・ポルシェ(''Ferry Porsche'')の愛称でも知られる。
フェルディナント・ポルシェの長男として父親とともにポルシェの創設に関わった。自身もポルシェ・356を設計し、ポルシェの監査役会長、名誉会長などを歴任した。
== 生い立ち ==
自動車技術者・フェルディナント・ポルシェの長男として、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーナー・ノイシュタットに生まれた〔。5歳年上の姉、ルイーゼがいた。名前の「フェルディナント」は父、「アントン」は父方の祖母、「エルンスト」は母方の叔父に、それぞれ因んだ洗礼名である。渾名はフェリー。
子ども時代には周囲に父フェルディナント・ポルシェの作った機械や部品がゴロゴロしており、自然に機械に対する関心を強めた。また父の方でも彼が幼い時からまず単純なもの、段階的に複雑ないくつものおもちゃを作って与え、興味と知識を育てた。最初に動かした自動車はハインリッヒ皇太子レース車をかたどって父がアウストロ・ダイムラーに作らせた足踏み車で、これを1913年から1914年頃に乗り回していた〔。次に動かしたのは空気タイヤ式の子供用ハンドル付き四輪車ホレンダーであり、その次がわずか6.5kgしかない競争用のプフ(後にシュタイア・ダイムラー・プフを経て現マグナ・シュタイア)製自転車であった〔。1919年のクリスマスに父は軽便鉄道用空冷式二気筒3.5馬力のエンジンを積み前進2段のトランスミッション、革張りコーンクラッチを備えた後輪駆動の自動車を作って与え運転を教えようとしたが、彼は運転法を教わる前に巧みにクラッチをつないで乗り回した〔。父がどうして運転できるのか聞くと「ぼくは半年も前から、家にある会社の車を動かし始めたんだ」と白状した〔。この車はダイムラー製でフェリーの踏力ではクラッチ操作ができず、ギアチェンジの際に立ち上がってクラッチペダルを踏んでいたという〔。まもなく点検や修理も自分でするようになった〔。父は公道での運転は禁じており、ナンバープレートもついていなかったが、フェリーは「オーストリアで一番大きい自動車工場の総支配人の息子をとがめる人はいないだろう」と当て込んで街中も走り回り、時には20kmも離れた狩猟区まで行ったこともあった〔。1922年頃には工場内でサッシャを乗り回していた〔『われらがポルシェ ポルシェなんでも事典』pp.81-83。〕。
1923年、一家はシュトゥットガルトに転居した。フィニッシングスクールを卒業したが、正式に大学で学ぶことは生涯なかった。ここでは警察は厳しかったが。特別なはからいで14歳で軽オートバイを乗り回していた〔。
1926年頃にはメルセデス・ベンツフォルクスワーゲンなどの試作車のテスト走行に加わり〔、またレースに出場するようになった。アウトウニオン1933年頃にバーデン=バーデン2,000kmラリーにチームを出場させた時にはドライバーとして参加し、区間によってはベルント・ローゼマイヤーより良いタイムを出したという。しかしこのレースの直後父フェルディナント・ポルシェからレース出場を禁止された〔。
1928年ボッシュに見習いとして入社、1年間見習工としてみっちり基本的養成を受けた後、1929年にシュタイア(現マグナ・シュタイア)に転職し機械工学、数学、図面の書き方を学んだ〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ」の詳細全文を読む



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