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フェルディナント・ポルシェ : ウィキペディア日本語版
フェルディナント・ポルシェ

フェルディナント・ポルシェ(''Ferdinand Porsche'' 、1875年9月3日〔『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.13-16「ポルシェの生いたち」。〕 - 1951年1月30日〔『世界の自動車-5 ポルシェ』pp.5-22「ポルシェ前史 最初の電気車からVWまで」。〕)は、オーストリア工学技術者自動車工学者。
ダイムラーのメルセデス(ベンツとの合併後はダイムラー・ベンツ、現メルセデス・ベンツ)の古典的高性能車群、ミッドシップエンジン方式を採用した画期的レーシングカーのアウトウニオン・Pヴァーゲン、史上最も成功した大衆車と言われるフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)など、1900年代から1930年代にかけて自動車史に残る傑作車を多数生み出した設計者として知られる。
さらにティーガー戦車(軍には採用されず、試作のみに終わる)、超重戦車マウス(こちらも試作に終わる)、エレファント重駆逐戦車といったドイツ国防軍戦車や、150tに及ぶ軍用トラクター、風力発電機も手がけた多才な人物であった。
口癖のように「技術的問題を解決するためには美的観点からも納得のいくものでなければならない」と言っていたという〔『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.35-42「第1次世界大戦後 ザッシャ車」。〕。
その傑出した業績から、後年の自動車評論家たちによって「20世紀最高の自動車設計者」に選出されている。
== 経歴 ==

=== 生い立ちと自動車業界入り ===

ポルシェという姓はスラヴの男子名ボリスラフから派生したと思われるが、東部開拓時代にドイツ家族に取り入れられた可能性もあり、その家族がスラヴの血を引いているとは限らない〔。
高祖父はヴェンツェル・ポルシェといい、現在チェコ領である北ベーメンで領主の小使いをしていた〔。その後一族は大工、樽作り、仕立て屋、織工、ブリキ細工屋などといった職人をしており、中には領主お抱えの者もいた〔。
父アントン・ポルシェは1845年にアルトハルツドルフに生まれ〔、年季奉公を済ますとオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった北ボヘミアリベレツ近郊の町マッフェルスドルフ 〔〔『あっぱれ技術大国ドイツ』pp.131-190。〕(''Maffersdorf'')、現在のヴラティスラヴィチェ・ナド・ニスウ〔(''Vratislavice nad Nisou'' )でブリキ細工職人〔となり、1850年生まれ〔のアンナ・エールリッヒ〔と1871年に結婚〔した。
フェルディナント・ポルシェはマッフェルスドルフで兄アントン・ポルシェ〔父と同姓同名である。〕、姉ヘートヴィッヒ・ポルシェに続く次男〔として生まれた〔『あっぱれ技術王国ドイツ』p.142は『三男』としている。〕。父アントンの仕事を継ぐはずだった兄アントンが徒弟奉公中に機械に巻き込まれて早世した〔ため若い頃から父親の仕事を手伝っていた〔が、子供の頃から電気に興味を持って独学で実験を行なうなど単なる職人に留まらない好奇心を見せていた〔〔。亭主関白であった父親は最初頑な態度を取り、ブリキ細工に関係ないことは全て禁じた〔〔が、フェルディナントは一日12時間という厳しい労働の合間を縫って屋根裏で実験を続けた〔〔。母親はこれを黙認していた〔。
ある日父アントンはフェルディナントの計略を見破り、実験室になっていた屋根裏に押し入ったが、その際硫酸の入ったバッテリーを踏みつぶして長靴や肌を火傷し、余計に腹を立てて厳しく罰した〔。母はウィーンの学校にやることを主張したが、父は妥協案としてライヒェンベルク国立工業高校の夜間部通学を許した〔。それでも父親は金属細工の仕事を継がせるつもりでいた〔が、自力で電源設備を製作し街で初めて〔または2番目〔に自宅に電灯を点したポルシェを見てその才能を認め、ウィーンに出ることを認めた〔。家業は弟で父アントン・ポルシェの4番目の子オスカル・ポルシェが継いだ〔。
1894年、首都ウィーンに出たポルシェは、電気機器会社ベラ・エッガー(Béla Egger、現ブラウン)で働く傍ら、ウィーン大学工学部の聴講生として熱心に学んだ。ベラ・エッガーでは実習生でありながら技術的課題に対して第六感があると評され、また常に新しい自己独自のアイデアを持っていたため瞬く間に昇進、4年後には検査室長になった〔『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.17-22「ヤーコプ・ローナー社 混成動力車」。〕。すでにこの頃から自動車への関心を持ち始めており、モーターについての特許を1897年末に申請している〔。
電気自動車を手がけ始めていたウィーンの元・馬車メーカーのヤーコプ・ローナーの電気自動車がモーターの修理でベラ・エッガーに入庫したのをきっかけに、1898年〔『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.7-12「パリ万国博 電気自動車」。〕〔ヤーコプ・ローナー〔『あっぱれ技術王国ドイツ』p.143は『ルートヴィヒ・ローナー王立自動車製作所』としている。〕に引き抜かれて自動車開発を手がけることになった〔。この時わずか23歳であった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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